中川原は島だった

2025.1.25

中川原は島だった。これは結構ショッキングな話です。実際水路の幅は大したことはなさそうだし、柳川みたいに船で川くだりが出来るほどの規模ではないと思いますので、博多の中洲や大阪の中之島のイメージはないですが、しかし面白いと思いませんか?

このクリーク(水路)が山下商店街と延岡駅前の国道の間をうねるように走っていた写真が残っています。いつもの航空写真ですが、昭和23年の記録を転記しますので、皆様じっくり眺めてください。私は、これは水路だと思います。

1)「水路」の反射率が道路と違っていて黒い。

2)川原崎の田畑の間に走っている「水路」と同じ反射率

3)どんどん川の反射率と同じ黒さで水路は続いている。

4)地図は昭和11年であり、航空写真は昭和23年ですので、かなり様相が変わっているのだと思いますが、地図と写真の水路はほぼ同じ。

5)特に萩町から富美山に抜ける馬坂の道より南側は、現在の道路と同じ走りをしている。この道路の下に暗渠化した水路が存在する可能性がある。延岡市の記録にはきっと存在すると思う。

6)現在の地図(令和2年)と比較して面白いのは、むしろ馬坂より北側。萩町のマンション敷地(昔病院があったところ)の境界、その北側の家々の境界が、この「水路」に沿っていること。

6)妄想老人が子供の頃は、「どんどん川」は旭小学校の前の道に併走していたが、三軒屋の交差点の手前、衛門山社宅に上がる道(道の角に青果店があったあたり)で突然、暗渠化していた。ここには水門と頑丈な鉄製の柵ががあったが、今思えばこの暗渠の先は山下商店街の方向に伸びていたのだと思います。






昭和23年の航空写真(国土地理院より引用)