延岡藩と内藤家

2026年1月28日

序章:トヨタと旭化成をつなぐ「見えない糸」

延岡市民の皆さん。私たちの街、延岡はかつて「陸の孤島」といわれていました。 夏目漱石の「坊っちゃん」で「田舎も田舎、人と猿が、半々住んでいる」と描写された街でもありました。この「坊っちゃん」イメージはいささか強烈なものがありました。

少し視点を変えてみましょう。実は、日本を代表する世界の自動車企業「トヨタ」の本拠地・愛知県豊田市と、ここ延岡市が、江戸時代には「兄弟」のような関係だったとしたらどうでしょう。さらに言えば、いまの宮崎県庁が建っているあの場所も、かつては延岡藩が支配する「庭」だったとしたら?

これは都市伝説ではありません。延岡藩主・内藤家の歴史を紐解くと、私たちが学校で習わなかった、驚くべき「広域ネットワーク」の姿が浮かび上がってきます。

延岡の殿様・内藤家は、もともと三河(愛知県)出身の徳川譜代の名門です。実は、豊田市(かつての挙母藩)を治めていたのも、同じ「内藤家」でした。江戸時代を通じて、延岡の内藤家と豊田の内藤家は、養子を送り合うほど密接な親戚関係にありました。幕末の延岡藩主・内藤政挙(まさたか)に至っては、実は豊田(挙母藩)からやってきた養子なのです。

つまり、現代の「旭化成の城下町・延岡」と「トヨタの城下町・豊田」は、江戸時代という基層において、同じ一族が治める「兄弟都市」だったのです。この見えざる絆は明治以降も続き、最後の延岡藩主の孫にあたる内藤政恒氏は、延岡と挙母の両家を継ぎ、学習院院長をも務めました。

私たちは「宮崎県の北の端」に孤立していたのではありません。江戸や愛知、そしてこれからお話しする福島や大分をも巻き込んだ、壮大なネットワークの一部だったのです。

第1章:史上最大の引越しプロジェクト ─ 1747年の衝撃

時計の針を、延享4年(1747年)に戻しましょう。この年、延岡の歴史を決定づける大事件が起きました。「内藤家の入封」です。

教科書では「磐城平(福島県いわき市)から内藤氏が転封してきた」と一行で済まされますが、地図を広げてみてください。福島県から宮崎県です。その距離、直線で約1,000km、当時の道のりで約1,500km。

これは、江戸時代の「お国替え(転封)」の中でも、最長距離の部類に入る、とてつもない大移動でした。新幹線もトラックもない時代に、家臣団とその家族、家財道具、そして何より「藩という政府機能」を丸ごと背負って、本州を縦断し、海を渡って延岡へやってきたのです。

なぜ、そんな過酷な移動を命じられたのか? 背景には、磐城平での大規模な百姓一揆(元文百姓一揆)の責任を問われた「懲罰」的な意味合いがあったとされています。しかし、内藤家の家臣たちはめげませんでした。

この引越しプロジェクトの凄まじさは、残された古文書が語っています。 江戸の藩邸は司令部と化し、留守居役の宇野奥太夫や保井勘左衛門らが幕府勘定所へ走り回り、手続きに奔走しました。 現地延岡には、「受取方家老」として内藤治部左衛門が先乗りし、城の受け渡しから、村ごとの年貢台帳(郷村高帳)のチェックまで、統治システム(OS)のインストールを一から行いました。

彼らが持ってきたのは、単なる荷物ではありません。「どうやって領地を治めるか」というノウハウと、譜代大名としてのプライドでした。この時、内藤治部左衛門らが築いた基礎が、その後120年以上続く「内藤延岡藩」の土台となったのです。

第2章:延岡藩は「飛び地帝国」だった ─ 宮崎も由布院もウチの庭

さて、ここからが多くの延岡市民にとって「初耳」かもしれない事実です。 「延岡藩7万石」といいますが、その領地は延岡・西臼杵だけではありませんでした。実は、非常にユニークな「飛び地」経営を行っていたのです。

1. 県庁の場所は延岡藩だった

 驚くべきことに、現在の宮崎市中心部、大淀川のほとりに広がる地域(下北方、大塚、生目など)は、延岡藩の領地でした。 宮崎市下北方には「宮崎役所(宮崎陣屋)」が置かれ、延岡から派遣された代官と勘定人が、現地の村々(約2万4千石分)を支配していました。 現在の宮崎県庁がある場所(上別府村周辺)も、かつては延岡藩の影響下にありました。明治になって宮崎県が置かれたとき、延岡の人々が「かつて我々が支配していた場所に県庁が……」と複雑な思いを抱いたとしても不思議ではありません。

2. 温泉の街・由布院も延岡藩 

さらに北へ目を向けてみましょう。大分県の人気温泉地・湯布院(由布市)。実はここも、江戸時代は延岡藩の飛び地でした。 速見郡湯布院筋にあった16の村々は延岡藩領で、延岡から派遣された役人が、豊後大分郡の「千歳役所(千歳代官所)」を拠点に統治していました。現在も残る「豊後国速見郡御領分絵図」には、温泉場の賑わいが描かれています。

つまり、延岡藩とは、延岡城下を「本社」とし、宮崎平野という「穀倉地帯(工場)」と、由布院や大分、国東半島という「営業所」を持つ、広域に展開するコングロマリット(複合企業)のような存在だったのです。 これを維持するために、家臣たちは延岡から峠を越え、他領を通行して、遠隔地の代官所へ赴任していきました。まさに「経営手腕」が問われる藩だったのです。

第3章:顔の見えないCEO ─ 江戸の殿様と養子ネットワーク

これほど広大で複雑な領地を治めていた「殿様」とは、どんな人物だったのでしょうか? 実は、延岡の領民や下級武士にとって、殿様は「めったに会えない、遠い存在」でした。

1. 殿様は「東京の人」 

譜代大名である内藤家の当主は、参勤交代の制度上、人生の半分以上を江戸(東京)で過ごしました。しかも、多くは江戸の屋敷で生まれ育ち、成人して家督を継いでから初めて延岡へ「出張」してくるのです。 延岡での滞在期間は、生涯を通しても1〜2割程度。現代で言えば、東京本社に住んでいる社長が、2年に1回、数ヶ月だけ地方工場(延岡)の視察に来るような感覚に近かったかもしれません。

2. 養子でつなぐ「内藤ブランド」

さらに特筆すべきは、延岡藩主家では直系の跡継ぎが育たないことが多かったという事実です。 「お家断絶」の危機! その時、セーフティネットとして機能したのが、序章で触れた「豊田(挙母藩)」や「高遠藩」といった分家・宗家の存在でした。 「延岡で跡継ぎがいないなら、豊田の弟を養子に送ろう」。 このように、内藤一族の中で養子を融通し合うことで、血のつながりは薄くとも、「内藤家」という看板(ブランド)を守り抜きました。

これを決めていたのは誰か? 延岡にいる家老たちではありません。江戸屋敷にいる重役たちと、内藤宗家、そして幕府です。殿様の人事さえも、江戸の論理で動いていたのです。

第4章:真の支配者たち ─ 「二重構造」の秘密

「社長(殿様)が東京にいて、しかも他所から来た養子ばかり。それで会社(藩)は回るのか?」 当然の疑問です。しかし、延岡藩は120年以上も存続しました。なぜか? それは、殿様不在でも現場を回す、強固な「二重構造」のシステムがあったからです。

1. 延岡を回す「実務部隊」:国家老    延岡に常駐し、実際に政治を行っていたのは、「国家老」と呼ばれるトップ・エリートたちでした。 高嶋家、柴田家、矢野家、平田家、三宅家。 彼らは、ある家は磐城平から付いてきた譜代の家柄であり、ある家(矢野家)は地元の有力者出身でした。洪水が起きれば堤防を直し、飢饉が起きれば救済策を練る。殿様がいなくても、彼ら「現場の重役」が延岡を守り抜いたのです。特に天保の大飢饉や押方村騒動といった危機では、彼らの手腕が問われました。

2. 江戸で戦う「外交部隊」:留守居役   一方、江戸には「留守居(るすい)」と呼ばれる外交のプロがいました。 彼らは他藩の留守居役と情報を交換し、幕府の役人と折衝し、転封や養子縁組といった「お家の存亡」に関わる問題を水面下で処理しました。 1747年の転封の際も、江戸留守居の宇野や保井といった人物が、幕府勘定所との激しい交渉の矢面に立っていました。

延岡藩は、 「象徴としての殿様(江戸)」 「外交を担う江戸家臣団」 「現場を統治する延岡国家老」 この三層構造が、絶妙なバランスで機能していたからこそ、激動の時代を生き抜くことができたのです。

終章:明治の逆転、そして未来へ

明治維新により、藩というシステムは解体されました。 延岡藩が支配していた宮崎郡には県庁が置かれ、かつての「飛び地」が県の中枢となり、延岡は一地方都市となりました。この「逆転」は、延岡の人々にとって複雑な歴史の皮肉だったかもしれません。しかし、延岡藩が築いたネットワークは消えませんでした。 最後の藩主・内藤政挙は、教育に情熱を注ぎ、多くの人材を育てました。彼の子孫は学習院院長となり、教育界で重きをなしました。 また、延岡を支えた国家老・高嶋家や矢野家の子孫たちは、近代延岡の政財界や教育界でリーダーシップを発揮し続けました。そして今。 延岡と豊田という、遠く離れた二つの工業都市が、実は江戸時代の「兄弟」だったという事実は、私たちに新しい視点を与えてくれます。 私たちは孤立していたのではない。海を越え、山を越え、江戸や三河、福島とつながるダイナミックな歴史に生きていたのだと。宮崎県庁や由布院温泉を訪れたとき、ふと思い出してください。「ここも昔は、ウチの庭だったんだな」と。 その誇りと、先人たちが築いた「広域ネットワーク経営」の知恵は、これからの延岡を考える上で、きっと大きなヒントになるはずです。