延岡藩と飛地経営

2026年1月31日

延岡藩が4箇所の飛地を持っていた・・・これは当時の大名にとってはごく普通のことだったようです。江戸初期から幕末まで終始領地が一箇所だった藩のほうが少ないくらいで、九州のおおきな大名では薩摩藩くらいかもしれません。福岡藩、熊本藩、佐賀藩も飛地をもっています。日向でも高鍋は都井岬あたりに高鍋と同じくらいの大きな飛地を持っていました。

というようなことは、本日初めて知った次第です。昨日知った面白い地名データベースにいろいろなことを教えてもらいました。管理運営されている北本朝展先生、利用させていただいていますが、ありがとうございます。お礼を申し上げます。

Geoshapeリポジトリ - 地理形状データ共有サイト | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター (CODH)

というデータベースであり、ここには

というサブページがあります。この6番目の幕末期近世村領域データセットというのがやたらと面白く、たとえば延岡藩の江戸末期の領地を出せ!というと・・・・

という地図を出してくれます。更に延岡藩が支配した「宮崎郡」の地図をみたいなら・・・

かくのごとき地図が出る。これって宮崎市の主要地域ですよね。もう驚きです。更に我らが延岡主要部(臼杵郡といいます)を出せといえば、下のごとき地図がでてきます。今の延岡市は九州では佐伯市に続く第二の広大な面積を誇りますが、江戸時代は、更にその規模を遥かに上回る版図を支配していたわけです。これではお代官様も大変だ。

更に豊後の飛地です。

上の地図では4箇所の飛地があります。右上の村落は千歳(せんざい)という地区であり、ここに豊後延岡陣屋がありました。ここは今の大分市高城であり新日鉄の近くです。その南の村落が光吉、わさだタウン、大分大学もあり江戸時代は穀倉地帯だったと思われます。一方左の村落は由布院でありJRの由布院駅や、湯平、金鱗湖などがその版図に含まれます。更に下の地図は国東半島の西側であり、現在の豊後高田市の北側となります。この3箇所の石高は合計2万石ですので、延岡にとっては大きな穀倉だったのです。この豊後領は内藤氏の前の領主牧野氏が延岡に赴任したとき、幕府から8万領に加増されるのですが、日向だけでは足りないので、急遽割り付けられたものです。内藤氏もこの領土を引きつぎ幕末まで支配は続きます。

これまでに引用した地図のメッシュ一つ一つが「村」を表していますが、それぞれがどれくらい米を作っていたか(石高)が「幕末期近世村領域データセット」でわかります。江戸末期の延岡藩には166村が登録されていますが、飛地を含めてそれぞれの10傑を調べて表にしてみました。トップは宮崎郡の瓜生野村で4184石でした。次いで臼杵郡の南方村、恒富村、岡富村と続きます。

最後に各地区の村がどれくらいの米を供給したか地図を作ってみました。先程のデータベースのことをChatGPTに教えて、命令を出します。

その命令文は「宮崎県と大分県の白地図を用意して、この上に各村の緯度・経度データをもとに丸印(大きさは石高による)をプロットしてくことは可能?(臼杵郡と宮崎郡と豊後国について) 淡いカラーできれいな最終出力を期待したいです」

たったこれだけでのプロンプトでこの綺麗な地図ができました。12分28秒かかりましたけど・・・・