延岡關係者座談會(「野口遵翁追懐録」)

2025.1.13

延岡關係者座談會


(昭和二十六年四月五日 延岡市某雪園)

出席者

元日本窒業本宮工場長          伊東 文吉
元日本窒業實石尼崎工場長            岩橋 勇     
延岡市有志           小田 彦太郎
元東海村村長          甲斐 伊佐雄
延岡市長            仲田 又次郎
元朝鮮人造石油専務       山田 豊
元日本窒化学工業庶務係長    小原 應義 
元延岡新聞記者         佐藤 和七郎
元日本窒業取締役        北村 忠義
元朝鮮窒素火藥社長                          宮本 正治 (旭化成専務取締役)
元日本窒素勤労部長                          平山 政保

司會    

              金田栄太郎 (旭化成 取締役)
              白石 宗城
              飯島 貞雄 (旭化成常務取締役)

金田: 市長さんから、お始め願ひましょうか。

仲田: 忘れもしない大正十年、ふとした事から私は十八歳で町会議員となりましてね、時の原内閣の濱相国太郎さんの主張で、宮崎県の水力電氣を結集して、北九州へ送る。即ち縣外送電計画が議せらるるや澎湃として県の世論が巻き起こり、私達も弱輩ながら、縣外送電計画反対運動に参加し、日向の山野を跋渉して、猛烈に運動したものです。野黨である意政会も動き、政府の強硬な手段が一時停頓しましたが、慧眼なる野口さんは此の機を逸せず、自ら乗り込んで実地調査をなし、直に五瀬川の水利権を獲得されました。野口さんがカザレ一式の特許權を得られた時で、県内にて肥料の製造工業を起すと言ふのですから、宮崎縣民の大歓迎を受けた譚です。同時に我々は流石に野口さんは偉いものだと感心したものでした。それが野口さんと私との附き合ひの初めで御座います。

金田: 当時の協力者はどういふ人でしたか。

仲田: 長峰與一、柿原政一郎、山本彌右衛門さん等です。

平山: 工場敷地問題に就いて、延岡銀行の頭取をして居られた三宅さんの話を御傳へします。野口さんに自動車に乗せてもらって愛宕山の下まで行つたが、その当時一行は自動車を珍らしがったさうです。丸山に上って工場用地にこのくらいほしいとステッキで指され、村で責任を以て買取してくれ、水が良いから此こにやりたいのだが、皆さんが引受出來んなら、岡富の方へ行くとの事であつたが、恒富の有志もお互いに顔を見合わせるばかりで即答出來なかつたそうです。野口さんはここで即答できんなら旅館へ行って、なお話そうと吉野屋旅館で、晩飯を共にし、いろいろ協議して、村で引き受けることに決したとのことです。

伊藤: 其の頃私の義兄は村會議員でしたが、恒富と岡富は非常に競爭だった。山本さん等恒富の村會議員が秘密に鏡の工場を視察してから、安心して用地買収にかかったそうです。

佐藤: 新聞記者として初めて野口さんに會つて、之は満身智慧の人だと言ふ印象を受けました。それで、うまく行けば良いが油断すると、ひどい目に會ふぞと心配しましたが、非常にうまく行つて、今日の盛大を見ました。三町村合併の時も大いにやろうと思いましたが、新聞記者なんかが行って感情を害し、折角成り立ちそうになっているのを打ち壊してはと心配して、野口さんへの方には積極的には出ていかん様にはしました。

岩橋: 工場の建地條件に關しては、喬一さんが最初に視察し、其の次に私が視察しました。

佐藤: 當時恒富村會は、相當有力者が揃って居りましたから、世間にわからん内に工場を誘致してしまったのです。新聞社の者も後から知った様なことです。主としては山本彌右衛門氏が最も中心になって働かれました。私は知事の初巡視の時、一緒に參りまして、谷口さんから紹介されて、野口さんにお目に掛ったのが初めですが、立派な體格の人かと想像して居たら、谷口さんの肩位しかなく、知事の参観でも作業服で説明されていたのをいつまでも忘れません。

金田: 工場が試運転をはじめたのはいつですか。

白石: 工場が運轉をはじめたのが、大正十二年七月だった。北村君と私も居た。日本としては、最初の高圧試験だからみんな緊張して運轉したが、間もなくアンモニアのにほいがしたというので、祝杯を上げて喜んだ。カザレーがイタリアからアメリカを経て、横浜に着いたのが九月の一日、即ち関東大震災の日で、橫濱は火の海で上陸どころでなく、神戸へ廻り十日に延岡へ来て運轉し、合成塔の温度を上げ過ぎるから生産が少いのだと言ふので、その言葉に従つて温度を下げたら、四、五日でうまく行く様になり、本當の祝益を上げました。

金田: 人絹工場の設置から、三町村合併の話に移りますせう。

小田: 延岡は景色は良し、水は清し、長生きには好適の地と思ひましたが、此んな工業都市になるとは夢想だにしませんでした。しかしレーヨン工場問題では全く困りました。

仲田: さうですよ。東臼杵郡の最後の郡長平山さんが、非常に斡旋し村議会議員総出で強制的に岡富四十町歩の美田を買収したが、工場は容易に出来ず、耕作も出来ず、岡富はすっかり疲弊してしまひました。

飯島: 大正十五年野口さんが、喜多又蔵さんと組んで、延岡にレーヨン工場を作る事になり、岡富の土地を買収したのですが、昭和の初めになって景気が悪くなり、又いろいろないきさつもあって、工場建設が延び延びになった。そのうちに昭和四年ですが、日本窒素がベンベルグをやることになったので、敷地のある岡富が当然利用さるべきだが、アンモニア輸送並びに悪水等の関係で、岡富では具合が悪く、恒富にということになったのです。

小原: 私は五十歳まで三井鑛山におりましたが、或る時、一高時代からの友達である福岡の工藤といふ人の宅で、野口さんにお目に掛つたのが縁と言ひますが、其の工藤君のお世話で、大正十五年の六月、こちらで働かして頂く事になりました。五十嵐淸治さんも同時に転任して来られました。中川原に仮事務所がありましたが、工場の建設は中止中で、地元ではやかましく言はれ、工場を建てんのなら耕作させろと迫られ、1年間工作させることにしました。事務所で私一人が野口方といふ様子で、まるで敵視されて、皆が相手にしてくれません。そのうちに野口さん達は株を売ってしまって止めることになったという風聞も、あったりしましたが、昭和四年の四月には野口さんが肩代りして、會社は野口さんの手でやることになったというので、私と給仕一人殘して、外の人皆罷める事になりました。困つた事には、やめた連中が書類や図面をみんな焼き捨ててしまったことです。四年の十二月に野口さんが見えて、岡富・恒富の有志を集め、排水と原料の輸送の關係で、岡富に工場を建てる事は困ると説明されましたので、岡富の有志はびっくり仰天し、私は前から工場は必ず出来るとなだめていたので、小原の奴は嘘を言つた。竹槍で突き殺せ等といはれました。恒富の方では、一生懸命で、ベンベルグ用の土地は、無償で提供するとまで言ひ出した。野口さんは初めは無償では貰わん。將來問題を生ずるから必ず買はなくてはいけないと言われていたが、先方が言ふなら無償で賞ふといふ事になりました。山本彌右衛門さんはびっくりされたようだが、笠原さんから言ひ出したことで、引込みがつかず無償提供となったが、買收費三十萬圓の金がどうしても出來ず、野口さんに融通方を願ひに行つたら、宜しい金をお貸ししませう、利子も取ります。但し来年3月迄に、三町村の合併が出來たら、お祝にみんな差し上げますと約束されました。此の貸金には山本さんに保證させる事になつたが、山本彌右衛門さんはなかなか判を押さうとしないのを、西森熊吉さんが押さんか、押さんかというて、山本さんの手を握って押さしたのだそうです。



小田: レーヨン工場の敷地を買収したままで、工場の建設は目途がつかないのに、ベンベルグの工場が恒富に出来るといふ評判、恒富はすでに肥料工場ができて村の財政隆々たるに、岡富は村の財政窮乏して居る。この上工場を恒富に横取りされては大變と騒いで居た。私は其の時延岡町長をして居りましたが、岡富の窮状を見ておられんと、東海村長甲斐さんと救援方を買つて出る事になりました。山本さんは私の応援を引き止めましたが、岡富の窮状を見るに忍びず、甲斐さん及び岡富の有志8名と大晦日に、野口さんに会いに別府に行きました。面會したのが昭和五年の正月元旦です。暮も迫つて、延岡・恒富・岡富三町村の議員有志連が一緒に会社で野口さんから恒富に工場設置の説明は受けたのですが、恒富はそれでも猶岡富へ設置の交渉に出かけたのです。野口さんは別荘であい、真剣の立会をしましたが結局其の日は物分れとなつて、岡富の一同は去り、私達2人が後に殘った時に野口さんが腹を割って、三町村合併問題を提起されたのです。合併すれば工場が恒富に出来ても、岡富へ出来ても、利害は皆同じだと説かれました。これが私の交渉の皮切りであり、合併の礎石となりました。

仲田: 小田さんは町長で、私は町會議員でしてが、恒富には山本あり、岡富には吉高あり、私もついて別府へ行かうと言ひましたが、調停役は一人で良いと言つて小田さん丈け行きました。

甲斐: 元旦の會合では、岡富の議員連中中々意氣が旺んでした。村民大會を開く事丈けは、小田さん等の奔走で中止となりましたが、川澄村長は此の問題で心痛して、病氣になられました程です。野口さんに面会して、岡富側は強く交渉し、質問となり、嘆願となったが、野口さんからは良い返事は得られずに面會して、岡富側は一応宿に引揚げ、待機して貰って、小田さんと二人丈け殘った。其の時に三町村合併問題を提起されました。其の時の打ち明け話に、今まで秘密になって居るが、恒富側には村長・議員個人に対して三十萬圓貸してあり、合併すればこれを帳消しにすることに約束してあるから、私達に合併に骨折れとの事です。そこで岡富の有志に合併を、私達からすすめて合併さへできれば、恒富に工場が出来ても良いのだからと説いたが、岡富側としてはとても恒富が承諾しまいという、それなら恒富側のことは私共に任せろと言うて、恒富に交渉を始める、私はまず恒富の門馬村長に当たりました。に合併をさうめて合併を、私達が骨を折らうではないかと打ち明けられました。工場が出来ても良いのだからと言ひ、恒富側の事は私共に任せると言ふので、恒富に交渉を始めました。例の三十萬圓の事を知って居るので、色々説いて村會を開かせた結果、纏まるという自信がついたので、今度は又岡富村会を説きつけ、延岡・恒富・岡富も同日同刻に町村會を開いて、合併を決議させました。岡富の方では、恒富が反對したらと心配して居ましたが、恒富が真っ先に決議してしまひました。それで敷地問題も解決となりました。

小原: 先程申しました十二月野口さんが、岡富の有志にベンベルグの工場には岡富は駄目だと言い渡された晩に、クラブで夕食を頂いた際に、三町村合併せることより外に解決の方法はありませんよと、私が野口さんにいふたら、奮藩公の内藤さんがやっても、知事がやってもいかんぢやないかと言はれたから、いやあなたなら出来ますよというと、うんと言はれた。そして翌朝、恒富の有志を集めて、敷地無償提供を主張され、三十萬圓の貸金となり、合併の實現となったものです。

佐藤: 縣の地方課長が來て、どうかして合併したいと言つたの事で、佐藤君骨を折つて呉れと、新聞の方で輿論を喚起して機運を作らうと骨折つたが、小原さんが、三十萬圓の秘密を洩して呉れて、今度は話が成り立ちますよと言われた。全く野口さんのおかげで、この合併が出来たので、のちに仲田市長が内藤さんを父とし、野口さんを母として、延岡市はできたのだと明確に言葉に現しました。

平山: 無償提供では恒富も隨分もめて、日吉さんと笠原さんと大いにやり合ったそうです。

仲田: 劇的の合併決議をしたのが三月三十一日です。

金田: 今度は火藥工場に進みませう。

甲斐: 火藥工場が恒富の片田に出來るが、土地買收に悩んで居るといふニュースが私の耳に這入つたから、一つ東海へ引っ張つてやらうと思ひました。實は、今の敷地は小田満兵衛といふ人の土地で、潮が入ってくるので作物が出來ない。いつもなんとかならんかと小田さんから言はれた事を思ひ出し、頭にピンときたのです。そこで小田さんの支配人小田彦太郎さんに、私にあの土地を売ってくれないかと申込み、値段まで約束して、大阪の野口さんへ地圖を添へて手紙を出した處、三、四日目に電報で「見に行く」といふ返事が來た。會社へ行って、五十嵐さんにいふと、自分の處へも電報は來て居るが、何の用件か、わからんとのことです。恒富に知れると大變だからと秘密にして貰ひ、前もって小原さんと古賀さんに一度現場を見てもらはうと思ひ、レーヨン事務所へ行き、小原さんに「あんたも後添いをおもらいなさい。良い嫁さんがあるからこれから見に行きませう」と殊更事務所の人に聞える様に話して連れ出し、外ではカムフラージュするために、遊船で雙者も乘せて祝子川を下ったものです。野口さんが見えた時はポッポ船で私と助役が案内し、四、五日内に返事を頂く事になりました。お別れの時に、明日宮崎へ行くと申上げると、自分も宮崎へ行くから、同じ汽車に乗ろうと言われたが、翌朝汽車に乘つたが、野口さんは見えない。宮崎へ着くと、助役から電報が來て居たので、直ぐ次の列車で延岡へ歸ると、迎への自動車が來て居た。そのままクラブへ行くと野口さんからは東海に決めたといふお返事があった。機敏な人だといふ事は前から聞いて居たが、成程と驚きました。直ちに買収にかかってくれとの事で値段の話し合いとなり、畑は小田さんと約束の倍にして申し上げたら、安いと言はれ、山林は高いと言はれたが、更に角大體の話合いを付け小田さんに行って事情を打ち明けた。値段が約束の倍なので大變喜んで貰った。そこで、早速野口さんに伺って地主と交渉が済んだことを申し上げたら、今度は野口さんが驚かれた。さて船便は良いが、陸運をどうするかといふ問題になって、私が引受けませう。その代り川島橋を架けると費用を援助してくださいと頼みました。この橋は鐵筋コンクリートでやる事に、縣も贊成して呉れたが、村会では費用が大きいので、問題になりましたが、橋を架け道を擴げることで私の約束であり、そうしなければ恒富に移るかもしれんと思って、一生懸命運動しました。縣で三分の二助成すると言ふから、三分の一出して下さいと別府に行き、野口さんに頼んで承諾を得て、工事にかゝつた所、一番向ふの地盤が悪くてビーヤを打ち込むといくらでも入ってしまふ。縣の監督も困つてしまった。宮本さんと一緒に正月別府へ行き、又援助の増金をお願いしたら、私の言ひ様が下手だった為めか、初めは難色があつたが、後には快く出して貰ふことになりました。

宮本: 山本彌右衛門さんが、相當野口さんに食ひ込んで居て、沖田川の上流片田に作る筈だったのです。私も見に行きましたが、重砲火藥取締法上、具合が惡いので、野口さんにご注意しました。 東海の方は土地が低いので面白くないけれども、地主が一人か二人だと言ふので、それが非常に野口さんの氣に入つたのです。

甲斐: 野口さん達を東海へ案内した歸りに、向ふから山本さん達がのつた船がこっちへ來よる。見られたら大變だと思つて、私達の船に幕を下したが、誰かに見られたらしく、野口さんが來られた事が知れたんですが、翌日は土地の買収も、約束もできてしまったんで、恒富では相當の騒ぎとなりましたが、どうする事も出來なかつた。

白石: 東海村長は相當なもんだと評判でした。

金田: 延岡市も生れ、工場も大きくなつてからの面白い話はありませんか。

甲斐: 三町村合併を、野口さんは大變喜ばれたが、東海・伊形の合併も喜ばれました。これは仲田市長の功績です。

仲田: 市の人口がどんどん増えるので、教育施設を考へなければならぬ事になり、大阪へ行き、野口さんに交渉したら、教育施設費として、大阪本社から十五万円いただいた。それは昭和十年の行幸直後でして、市會も威激して、感謝文を決議し、正月のお祝いに大きな猪を一頭添へて、感謝文を携え別府に行き、野口さんにはお目にかかり差し上げました。フグ料理の御馳走になりました。その時私の年を聞かれ、僕より五つ六つ下だらうと言はれた。私は前から禿げていたからです。實は野口さんが六十三で、私が四十三で、二十も違ふのです。其の時これは秘密だが、來年は興南工場をやる、オヤジは勤王家だつたが、僕も何とかして朝鮮への陛下の行幸を仰ぎたい。今後は大いにやるぞと話されました。僕は目頭があつくなりました。

甲斐: 私の方が延岡市に合併してから、私も市會議員になりましたが、仲田さんが市長をやめると言ふので、野口さんをと言ふことになつた。朝鮮で興南ムラ長になられたから、受けられんこともあるまいといふこともあつた。時の内務大臣安達謙蔵さんが縣廳へ見えた時そんな話をしたら、野口さんは日本の野口でなく、世界の野口だ。体は小さいがやる仕事は大きいと言はれました。

金田: 皆さん色々面白いお話を伺つて有難う御座いました。

「野口遵翁追懐録」 1952年 910頁―925頁