旭化成延岡進出(1)
2025.1.13
旭化成はいったいどのようにして、延岡に進出してきたのか?野口遵はなぜ延岡に目を向けたのか?
野口遵は日本のセシル・ローズといわれるくらいの実力者であり、日本窒素という会社の創設者であったり、当時の植民地であった朝鮮の開発の先頭に立っていたこともあり、現在ではなかなか顧みられることが少ない人物です。延岡市も大いには語らない。ともすれば「旭化成」も積極的には語らないかもしれません。しかし、現在の延岡のある部分を作った最大の功労者(しかも企業人であり資本家でもある)であり、日本で最初に電力開発と化学工業を同時に行い、多角的な企業経営をおこなった人でもありますので、当ホームページでは大いに語りたいと思います。
私達は年代記の形で、延岡の近代をみることができます。もちろん延岡市のスタートは昭和5年の3町村合併ですし、行政側としては当然ここをスタートとすべきでしょう。この行政側の年表に旭化成(日本窒素)が進出してくる状況が「ちらほら」と併記され、それをもって旭化成の延岡進出の概略を知っていると思っています。

しかしながら延岡市が急速に発展を始めた大正後期から昭和10年ころまでの、実際の動きを詳細に理解している人は、多くないのではないかと思います。
資料が少ないし、大正〜昭和初期の歴史文章も多くはない。実際にはこの年表の10年以上前から動きは始まっており、三町村合併はいわばその動きの結果であったという見方もできるのです。そこで、小生が調べた限りの流れを分かりやすく解説したいと思います。
たとえば以下のような事実があります。
① 中川原の工場用地を野口遵が取得したのは大正15年。
② ベンベルグ工場が中川原に建設予定だった時期がある。
③ 火薬工場の最初の予定地は愛宕山麓の「片田町」だったが、たった2日で予定地を追内(今の水尻)に変わったのは、当時の東海村長の見事な暗躍があったから。
④ レーヨン工場誕生は難産であり、土地取得から8年もかかっている。
⑤ 川島橋、須崎橋、五ヶ瀬橋の建設と工場増設は深く関わっており、延岡市側は建設費を旭化成(当時の日窒)に出させている。川島橋ができるまで、東海へは海路しかなかった。当時の須崎橋と五ヶ瀬橋の下には「アンモニア」と「苛性ソーダ」のパイプが通してあった。薬品工場からレーヨン工場への送管のためである。
⑥ ベンベルグ工場8万坪の用地費用は30万円だった。本来野口遵が30万円を延岡に払い、土地所有者に分配するはずである。しかしながら工場を誘致したい恒富村と他にも工場用地がほしい野口の間には紆余曲折、本当にいろいろあって、さらに岡富村、東海村まで絡んでくる始末。恒富村は(お金もないくせに)旭化成に土地を無償で提供するという暴挙にでた。しかし恒富村は(地権者に払う)お金の工面に困り、結局野口遵に30万円を借りることになった。
⑦ 延岡町、恒富村、岡富村、東海村と交渉相手が目まぐるしく変わる状況をなんとかしたい野口遵は、延岡町、恒富村、岡富村の3町村合併を持ちかける。そして「昭和5年3月までに合併が成立すれば、30万円の借金は帳消し、お祝いのお金として差し上げます」と提案。この提案が功を奏したのか、3町村合併は進み昭和5年4月に成立したという次第のようです。(一見美談のようですが、なんか腑に落ちないところもあります。しかし大きな動きを作って、結局素早く解決していっていますので、当時の延岡陣営もなかなかしたたかだったのかもしれません)
このあたりの情報では、一次資料としては「延岡市史」「旭化成社史」「日本窒素肥料事業大観:創立30周年記念誌」「野口遵翁追懐録」「日窒コンツェルンの解剖」などを参考にしています。進出側である会社側の資料が多いので、記述に偏りがある可能性は否定できません。一方、進出される側である市民(当時は、村民であり町民)の記録がないので、昔から住んでいた人々の受け止め方がまったくわからないのは、残念ではありますがしょうがないことです。当時延岡には「延岡新聞」という地方紙があったようですが、これが現在も読めるととても面白い「はず」なのですが、残念なことに小生には困難です。図書館に残っていると良いのですが、県立延岡図書館は昭和12年に火災で全焼したので、あまり期待ができません。わずかに、進出される側の記録としては、村会議員や村長の語った言葉が残されています。
生々しく、当時のやり取りが記録されているのが、「野口遵翁追懐録」の最後の方にある延岡關係者座談會(昭和二十六年四月五日 延岡市某雪園)という15頁にわたる座談です。3人の元町長(延岡、岡富、東海)を中心に、主に野口遵との丁々発止のやりとりが記録されていますが、これはなかなか面白い資料です(国会図書館所有の本をChat GTPに読み取らせてテキスト化したものを全文掲載します)。
今回はこれを中心に纏めてみました。
延岡關係者座談會(「野口遵翁追懐録」)(ここから飛べます)