旭学院塾と旭ゼミナールについて

2025年9月27日

ある時代の延岡の小中学生はこの2つの塾を、その名前を、どこかで聞いたことがあるかもしれません。中にはかなり強烈な印象をお持ちの方もいると思います。情報を寄せてくださった皆さんのメールの内容や、わずかに記録が残る書物情報を改めて読むと、時代を経るごとにこれらの塾の印象は強くなっていっているように思われてなりません。妄想老人はどちらにも通いましたが、まだまだ牧歌的な時代に通っていたような気がするのです。

まず地図を見てもらいましょう。旭化成は桜園にまず職員住宅を作り、ついで昭和30年ころから東旭アパートを建設しましたが、古くからある職員住宅の一角に最初の「玉置塾」はありました。「旭学院塾」の最初期です。妄想老人はここに一年間通いました。きっかけや目的が何だったかさっぱり覚えていません。いつの間にか通っていたのです。

妄想老人にとって旭学院塾の印象は一言でいうと「寺子屋」でした。教室ではなく住宅の6畳間に20人近くの塾生が詰め込まれて、ひたすら「教科書」を先取り学習するというものだったか?いや違うな。「自由自在」という問題集をどんどん解いていくようなスタイルでした。中学生も小学生も学年関係無しで同じ部屋で学んでいました。週に何回通ったのか?何時から始めるのか?まったく覚えていません。

授業にはいろいろ工夫があり、たくさん問題をこなすと、先生が小遣いをくださり近くの駄菓子屋でアイス・キャンデーを買ってくれた覚えがあります。玉置昭三先生が唯一の先生でしたが、とても面白い先生でしたので、ついつい乗せられて通塾していたものでした。旭小の同級生も何人か通っていましたが、旭以外の生徒とも初めて知り合いになっていい思い出がたくさんできました。恒富小学校、岡富小学校、東小学校、西小学校、東海小学校からやってきた同級生は今でも顔が思い出せます(名前は全部は無理ですが)。

玉置昭三先生は、大変な切手収集家でもあり、そのころの私達にとって究極の記念切手「月に雁」(昭和24年発行)を何枚も持っておられ、なおかつシートも持っていたので、私はそれを見せてもらった印象が強烈です。余談ですが、小生が塾をやめた後、ある後輩が鹿児島のラ・サールに合格した褒美に「月に雁」を一枚貰ったという話を聞いて、羨ましくてしょうがなかったことを思い出します。

旭ゼミナールは中学の頃に通いました。旭学院塾に通っていたころの同級生が一人も教室にいなかったのは、今思えば不思議です。皆さん中学受験を終え県外に出ていかれたんでしょうね。旭ゼミナールは、旭学院塾ほどの印象が残っていません。淡々と通っていた。教室は40人程度であり、数学と英語(国語もあったのか?)で週二回。もちろん学校の授業より程度は高く独自の教材を使っていました。最初の英語の授業にでてきた単語(hippopotamus:かば)の印象が強く、いまでも思い出されます。土々呂中や南中にどびきりよくできる生徒がいたのは今でも印象に残ります。自分自身の高校受験に具体的な目標やイメージがまったくなかったので、ただただ淡々と通っていましたが、中学三年になり、英語の先生(川上先生という方)に目をつけられ、一年間個人的に猛特訓を受けることになりました。この先生のおかげで英語の成績がのびました。

余談ですが、旭ゼミナールは中川原からは遠いのです。自転車で通っていましたが、おなかが猛烈にすくので授業の前に食べるパンとフルーツ牛乳が楽しみでした。

以上どうでもよいような個人の思い出です。

で、調べてみたんですよ。この2つの塾の経歴を。わかった範囲で書いてみましょう。

妄想老人のもとにメールをくださる方の中に、この2つの塾について教えてくださる方がいらっしゃいます。私もこれらの塾に通いましたので、大いに語りたいのですが、はたと困ってしまうことは、在籍した個人的記憶はあるにもかかわらず、これらの塾の「生い立ち」と「行くすえ」についてほとんど知らないということです。資料は十分ではなく、いくつかに限られますが、昭和40年前後の延岡の塾事情ということで語ってみたいと思います。(村松喬という有名なジャーナリスト(毎日新聞記者であり教育評論家)による「教育の森」という大部の著作やいくつかの批判的著述を参照にしましたが、この中で最もまとまった資料は「延岡市50年史」でした。わざわざ「乱塾時代」という章立てがあるくらいです)昭和時代の延岡は他の町と比較しても随分、塾が盛んだったようです。

延岡市における塾事情

• 昭和30年前半には学校の現職教師によるアルバイト学習塾が存在していた。


1)「旭学院塾」と「旭ゼミナール」の歴史

• 旭学院塾(あさひがくいんじゅく)

  1. 創設期: 1958年(昭和33年)県北では最も古い塾の一つとして桜園町に始まった。
    玉置昭三先生による個人授業であった。小生が通ったのはこのころであり、生徒数は20名程度であった。

  2. 発展期: 1970年(昭和45年)頃、山下町に移転した当初は生徒数350人ほどで、やはり個人教授に近い形であったものが、次第に組織化され、1981年までに卒業生は4500人を数える規模に成長した。この間平原に分校が併設された。普通コースと特コースがあり、特コースは男子と女子とクラスが分かれており、女子は7時ぐらいで授業終了だが、男子はおそらく11時か12時まで授業。

  3. 移転期: 1980年(昭和55年)頃 宮崎教室を開設し本部を移転 現在は玉置美穂子さんが「あさひ英才教育センター」という名で継承されている。
  4. 特徴: 「受験塾、進学塾」として知られていた。(メールをくださる皆さん鹿児島ラ・サール志向が強い塾だったと・・)

旭ゼミナール(あさひゼミナール)

  1. 創設期: 1964年(昭和39年)旭化成が従業員の子弟を対象に「旭化成進学塾」として開設。基礎学力を補うユニークな形態の「補習塾」であり、目的は、高校や大学への進学希望者の学力向上

  2. 発展期: 1966年(昭和41年)「旭ゼミナール」と改称。元延岡高校校長 下田敏を校長に迎え、専任講師は主に延岡市内の高校退職教師。1968年(昭和43年)からは対象を広げ、目的も「延岡地区および近郊の高校、高専進学希望の子弟に対し、学習効果の増進をはかる」と変更し、生徒数は615名と大規模に。1982年(昭和57年)までに卒業生は延べ8000人。
  3. 特徴: 企業による従業員に対する福利厚生施設として、(私達がイメージする以上に)全国的に紹介されていた。有名だったようです。

2)次に掲載するような記事(企業の社会責任ハンドブック1974)のほか、いくつもの記事が「国会図書館アーカイブ」に見つかります。

さてさて、旭ゼミナールはどこに行ってしまったんでしょう?どこかで終焉を迎えたはずですが、わからない。その後の姿が知りたいものです。