旭社宅と衛門山社宅
2024年8月30日
私は旭化成社宅で育ちました。生まれたのは衛門山社宅であり(記憶がほとんどない)、その後中川原の旭社宅に移りました。合計で5回引っ越しをしたことになります。住んでいたころの衛門山社宅の記憶は余りありませんが、小学校の友達が住んでいた社宅としての衛門山には何回も遊びに行ったので、小学校3〜4年の記憶は割とあります。小学校の前の道には「どんどん川」が並行して流れており、小さな橋を渡って急な坂を駆け上がると衛門山社宅でした。橋の向こう側には「文房具屋」さんがあり、そこでノートや鉛筆を買っていました。当時流行っていた「薄切石鹸(としか言いようがない)」の記憶が鮮明です。女子諸君はそれを小学校に持ってきて手を洗っておりましたが、良い香りがしたものです。
さて衛門山社宅は山の中腹のようなところにありましたが、小道を挟んで更に山側にはお寺がありました。「善生寺」という名前であることは最近調べて知りました。ここの墓地は私達いたずら坊主たちの格好の遊び場であり、随分悪いことをした記憶がありますが詳細は割愛しましょう(たたりが怖いなあ)。
旭化成の社宅は戦前に作られたものとは聞いていました。旧いのですが、それなりに趣のある余裕の建物でした。風呂がついていますが、五右衛門風呂であり風呂を沸かすと底が猛烈に熱くなるので、木の板を沈めて、スライドさせて固定しなくては入れません。この技はなかなか子供には難しかったです。マキで焚くのですが、私はこれが得意で風呂焚きは小学生の仕事でした。この社宅については語りたいことが山のようにありますので、後日また別のページを立てましょう。

この空撮写真は1975年(昭和50年)2月24日に撮られたものです。衛門山社宅、(中川原)旭社宅、東旭アパート、東旭の社宅、山月(山付)の社宅とテニスコート、旭小学校、旭幼稚園、岡富供給所(すでに旭サービスに代わった?)、麗陽クラブ、旭陽クラブ、麗陽幼稚園、善生寺のすべてが映り込んでる最後に近い写真ではないでしょうか。こののち、この地域は大きな変貌をとげます。

この空撮写真は1962年(昭和37年)9月12日に撮られたものです。1975年と違うのは旭小学校の校舎です。大きな運動場の南側が一年生の校舎、北側が二年生の校舎でした。北の運動場には音楽室があり、あさひ幼稚園の横にはゴミ焼却炉と陶器を焼くための窯がありましたが、これを覚えているヒトは少ないだろうな。給食室の北側には小さな倉庫があり、体育に使うマットや跳び箱のほか運動会に使う綱引き用の綱、テントなどが所狭しと収められていました。国旗掲揚台の近くには小学校の外壁の隙間から手の届く、民間の食品加工場があり、この隙間からおばちゃんに声をかけ「アジのフライ」を買って食べていた小学生は私ですが、これが美味しかったなあ。
さて、社宅関連では旭社宅の中にあった南社宅の数が違う。あと供給所と大浴場が違っている。また東旭アパートの数がまだ少ないです。東旭の社宅の数の多いこと。

この空撮写真は1948年(昭和23年)5月17日に撮られたものです。旭小学校はこの年の4月8日に設置許可がおり岡富小学校より分離しました。そしてこの写真が撮られた2日前である5月15日が開校記念日だったとのことです。さてもさてもこの写真は貴重ですね!
ちなみに開校時の正式名称は「中川原旭小学校」です。卒業生なら覚えている校歌。その歌詞ですが「なかがわ〜らあさひのこども」というのはここから来ているのかな。さて校舎はどうしたのでしょう?急に建てたのかな?実はこの建物は、延岡商業学校の建屋だったのですね。1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、県立の旧制中等学校(延岡中学校・延岡高等女学校・延岡工業学校・延岡商業学校)が統合され新制高等学校2校が発足したとあります。延岡商業学校は移転していったのですね。
大きな「口の字」の校舎が見えますが、この建屋は戦前からのいくつかの写真にも登場しますが、昭和33年9月2日の放火で延焼したのは、この建物なのでしょうか?わたしはこの火事を母親と一緒に見ましたが、赤い炎の恐ろしかったことを覚えています(痴呆老人の妄想??)
東旭アパートはまだ建設されていませんが、その南には住宅を数多く認めます。実は東旭アパートが建ち始めた時期はなかなかわかりません。どなたかお教えいただければ幸いです。

この写真が撮られた画角に馴染みがある方は、私と同様の古い人間です。私は山月から富美山に抜けるトンネルを知らない世代です。富美山に行くには、この写真右下に見えるテニスコートの横を上がっていき、今の隧道横にある細い急峻な小道を登っていく必要がありました。その頂上あたりは比較的眺望が良く、この写真の光景に出会います。
さて、この写真ですがテニスコートの筋向こうに大きな一軒家が見えますが、これは最も広い社宅でした。日之影線(高千穂線)の向こうに運動場が見え、さらに先には「ロの字、あるいは日の字」に見える校舎が見えますが、これが小学校か商業学校かは私にはわかりません。レーヨン工場の引込み線の向こう、ちょうど麗陽幼稚園のあったあたりの建物は不思議です。大きさ的には供給所かもしれませんが、わたしが知っている供給所の場所よりはずいぶん南にあります。また引込み線の踏切があったあたりに遊園地がありましたが、かすかに見える滑り台(妄想?)は私の記憶にピッタリ合います。日豊線の向こうにみえるのは東旭の住宅群です。旭小の火災事件以前の写真だということはわかりますが、それ以上は不明です。

「工事前の岡富供給所」というタイトルで掲載元は1964年発行の「レーヨン工場史」です。この本は国立国会図書館にあります。私の知っている供給所とは少し違う。私がよく通ったのはこのあと改修された建物だと思います。この写真が撮られたのは当然1964年以前です。

岡富供給所の横にあった麗陽幼稚園。その開園式の写真です。いつの写真かは不明ですが、1964年以前・・・。

中川原の旭社宅の入口です。「本通り」という名前がついており、通りの左にはまず旭化成職員のための共同浴場が見えます。その向こうには「旭友クラブ」という男子寮と食堂があります。続いて社宅が始まりますが、社宅には手前から本通り1号、2号というように名前がつきます。引込み線の踏切の向こうに「遊園地」があり、その向こうに単独で本通り10号が続きます。さて右手にはまず「どんどん川」から続く小川が見えますが、子どもの立っているあたりで暗渠となります。塀の右側は「岡富病院」ですが、私たちは工場病院とよんでいました。