明治の延岡地図
2025.2.6
1903年とは明治36年ですが、みなさんは下の延岡の地図を見ても何の感慨もわかないことでしょう。延岡の明治36年がどんな時代だったか?廃藩置県から30年、日清戦争からほぼ10年となりますがピンときませんね。
地図を見てすぐ気づくこととして日豊本線がありません。日豊本線はどこまでできているかというと、小倉ー宇佐はできていますが、まだ別府、大分すらつながっていません。大分は明治44年に開通。国道は(現在の10号線は昭和27年に制定)35号線と呼ばれていた。その国道ですが、よく見てください。中川原のあたりまでは今と同じですが、三軒屋あたりで今の山下通りの方へ向かいます。そして祇園町に直入して「板田橋」をわたるようです。今の延岡駅前の旧10号線がまだ存在しません。明治の御代のメインストリートは山下通りだったということですね。一方南の恒富方面はどうだったかというと、城山の下から「大瀬橋」を抜けていくのがメインストリートということになります。おそらく板田橋をわたって南町でお城の方に右折して大瀬橋の方に抜けるのが本道だったんでしょう。
さて次の地図は 1932年の地図です。ほぼ30年経っています。ものすごく長い時間が経過しています。これが昭和7年ということになります。
(いずれの地図も「今昔マップ on the web」を参考にしています。感謝です)

この30年で延岡は大きく、大きく変わりました。延岡の歴史上、これほどの大きな変化はないと思われます。地図の上でその変化に気が付かれますかね? 日豊本線はなんと南側から伸びてきてまず南延岡駅が、ついで大正11年5月1日には延岡駅が開業しています。難所「宗太郎峠」を北上し、翌年大正12年に小倉ー吉松間が開通します。つまり、ようやく延岡の人たちは列車で東京に行ける時代になったということです。一方鹿児島方面への延長が完成するのには時間がかかり、この地図の年1932年ということになります。
さて昭和7年というのは、延岡にとって激動の時代であり、東海(追内)に火薬工場が建設されます。また中川原ではレーヨン工場建設が最盛期を迎えている(はずです)。しかしながら、この地図では中川原が空白になっています。ほぼ8年ちかく放置されてきた中川原地区であり、表記しずらいため、「地図上の空白地帯」になってしまったのではないでしょうか。
岡富、恒富、延岡、東海それぞれが、かつてない拡大の季節を迎えているのでした。恒富村には肥料工場があり、その北隣には人絹工場ができました。
延岡町にはいくつも橋が増えおり、延岡駅前には「あたらしい」国道が伸びて、それが「五ヶ瀬橋」や「須崎橋」と直通するようになりました。一方この時代になってもまだ「安賀多橋」がないのが、平成・令和時代の我々には違和感ですね。
さて、町並みや人々の暮らしに踏み込みたいのですが、ようやく少しづつ資料が手に入りつつあります。第二弾でまとめてみたいのですが、なかなか面白いです。
追記:1932年(昭和7年)の地図では緑ヶ丘に「競馬場」があるのがわかります。この競馬場は昭和7年の数年前までは恒富〜三瀬町にありました。「人絹工場」の建設を契機に緑ヶ丘に移転しています。実は明治の頃から延岡には競馬場があり、当初は川原崎に存在していたそうです。明治36年の地図ではさすがに競馬場は不明のようです。
追記(2):火薬工場の建設予定地は当初愛宕山南麓の「片田」だったと、どこかで書きました。これを剛腕でひっくり返したのが、当時の東海村長の甲斐さんという人でした。実際には片田には地権者が100人以上いて、交渉が困難だったことと、当時の日窒の技術責任者「宮本」さんが片田地区の実地調査を行い、事故(爆発事故)が起こったとき日豊線に損害が出る可能性があることが相当なリスクであると野口遵に進言したことが、方向性を大きく変えたと言われています。
追記(3):地図をじっくり眺めると、あとからあとから発見があります。この二枚の地図を見ていて気がついたのですが、明治36年と昭和7年のいずれに地図にも祝子川以北にしっかり集落が見えています。粟野名、清高島、大武、寺島、戀島、川嶋、大小様々ですが集落というよりは、「町並」といってもよいくらいの大きさがありそうです。大瀬川以南も同様で濱砂、出北、別府、惣領、丸が島そして方財です。一方、岡富北部の中川原、中の瀬あたりは全く集落がありません。30年間変わりないです。
なにか理由があるのですかね。中川原、中の瀬はあまりに低地すぎたのかしらん?(老人の妄想ですが調べてみたいな)
野口遵が岡富地区では今の日豊本線の西側にしか土地を購入していないこと(二硫化(炭素)工場のために中の瀬に「飛び地」は購入していますが)にヒントがあるような気がします。さらには日豊本線開通時あるいは延岡駅新設時に鉄道のために「埋め立てをした」という歴史的事実もあるのです(将来コラム化します)。衛門山社宅のあった場所は、かつては山でそこから削り取られた土砂を埋め立てに使ったという記録もあります。雷管工場建設地は浜山で周辺より高い場所だったという事実。ダイナマイト工場の追内は「潮が上がってきて耕作ができない」土地だったとありますが、建設時に3m土砂を積み上げ工場用地化したとの記録もあります。 この頃の延岡発展の課題は「低地と洪水」だったのではないのでしょうか?
