昭和の恒富と社宅

2025/12/5

延岡旭化成の昭和時代の社宅について、妄想老人はこれまでも、いくつか紹介ページを作りました。本日は第三弾として恒富社宅についてまとめてみたいと思います。恒富に最初に社宅ができたのは、薬品工場(アンモニア工場)ができた直後でした。昭和2年には33棟以上の社宅があったようです。(熊本県立大学教授の辻原万規彦氏の報告を参考)

ついでベンベルグ工場が建設されたのが昭和5年ですが、同時期に現在イオン延岡店(およびボーリング場)のある場所(旭町2丁目)に工場事務所や浴場や武道場や向陽倶楽部とともに延岡で一番大規模(48棟)な社宅が建設されました。

延岡地区の3町村合併が話し合われていた昭和4〜5年ころ、すでに恒富には薬品工場に続きベンベルグ工場、更には供給所、浴場、向陽倶楽部、テニスコートや卓球場などを伴う100棟近い社宅群が完成し、目まぐるしいほどの発展を遂げていたことがわかります。

岡富の社宅にはその全貌を映す写真が残っていますが、恒富社宅にはなかなか良い写真がありません。また恒富社宅は大空襲でかなり損害をうけているらしく、戦前の建物がどれくらい残っているかわかりません。この戦災については「薬品工場30年誌」という記録集に生々しい報告が残されています。

令和7年にぞの全貌をみることができるのは、例によって米軍の航空写真が唯一ですが、一番古いもので昭和23年のものとなります。

黄色で囲んだところが社宅になりますが、恒富小学校の下(東側)が薬品工場の社宅、その右側(北側)がベンベルグ工場社宅です。


一方地図は、熊本県立大学の辻原先生の記録がありますが、これは戦前の日窒の資料を細かに調査し得られた労作であり、唯一のものでしょう。

供給所が見えますよね。これはそれ以前には薬品工場の端にあったものが昭和8年に移転してきたもので、妄想老人はよく訪れていたものです。とても懐かしいです。現在のボーリング場の北側、ちょうど「支社事務所」があるあたりです。

一方最初の昭和28年の写真の右手にある「職員住宅」については、なかなか資料が少なく詳細が不明なのですが、このあたりご存じの方があればご連絡ください。ちなみに現在の「共栄町」にこれらの住宅がありました。レーヨン地区でいうと「桜園町」に相当するのではないかと思います。

当時の社宅の様子がわかる写真をいくつか紹介しましょう。(日窒の30周年誌等々から引用しています。)一枚目は向陽倶楽部です。地図でみるとわかるように、薬品工場の社宅が道に面しているところにありました。延岡支社の向かいあたりだったかな。

2枚目は昭和30年代と思われる「延岡支社」の写真です。現在の支社とは違って立派な建物です。(この写真は出所不明でして、もし無断借用ということであればごめんなさいです。)

3枚目は昭和10年頃の社宅です。右下の平たい屋根は薬品工場の電解工場で、左下の校庭が恒富小学校。社宅の向こう側の大瀬川の手前に近代的な5階建くらいの大きなビルが見えますが、これが女工さんたちの寄宿舎です。煙突の向こうの白っぽい低層の、しかし幅の広い工場が今も続く「ベンベルグ工場」です。2030年には創立100年を迎えることになります。

さて、社宅ですが今ひとつ詳細がわかりにくいです。これぞ!という写真を見てみたいですね。なお、この建物群は1945年6月29日の延岡大空襲でほとんどが被災したといわれています。

4枚目はベンベルグの工場付属病院です。どこにあったんだろうなあ?といつも思います。

最後に延岡大空襲の被災地域の地図です(延岡城・内藤記念博物館より)。旧延岡7町から恒富地区にかけて被災の規模がわかります。