アンモニア工場の発展

2025年12月10日

恒富村に工場が何もない時代の風景が想像できるでしょうか?それを伝える写真が一枚あります。いつものように愛宕山の頂上から取られた写真ですが、出北と別府の村落がわずかに写っており、更には開通間もない日豊本線を列車が走っているのが写っているようです(確信はありませんが、そのように見える)。きっと野口遵が最初に見た風景がこれであり、彼はステッキを持ち上げ「あそこから、あそこまで欲しいのでよろしく頼む」と恒富村の村会議員たちに告げたのだと思います。

3ヶ月ほどの短い期間にこの写真は撮られたものと思われます。翌年大正12年に工場は完成し、10月5日にはアンモニア合成開始。10月25日には硫安生産開始しています。ここで素晴らしいのは、野口遵は11月9日にはアンモニア合成の「工業的成功」を確信し、11月19日に第一期と同規模のプラントをイタリアに発注していることです。イタリアで野口はカザレーの小規模パイロット工場しか見ていません。「ぷーんとアンモニアの匂いがした」という感覚だけで、100万円の特許料支払いと180万円の設備投資を決め、いきなり商業生産レベルのプラントを作り上げるのです。普通の起業家はテストプラントを作って、スケールアップを図るというのが道筋なのですが、野口にはそれでは遅すぎるのです。このあたりの感覚が並外れています。それと部下の技術者がとてつもなく優秀だったのでしょう。

左上に変電所があり、銀色の大きな平屋は「電気分解工場」です。その手前の高床式(?)の黒い建物が「硫酸工場」。ガスタンクの手前の背の高い一軒家風の建物が「アンモニア合成工場」です。合成工場の手前の中層の建物が「硫安工場」その手前の大きなレンガ色の低層が「硫安倉庫」です。硫安工場の向こう隣のレンガ色屋根が「窒素工場」です。まだ事務所がありません。まだまだのどかな風情がありますね。

左手前にに変電所があり、その向こうに背の低い銀色の大きな平屋が続きますが「電気分解工場」です。その右手の高床式の黒く高い建物が「硫酸工場」。その影に隠れて「アンモニア合成工場」は見えません。右の中層の建物が「硫安工場」その右の低層が「硫安倉庫」です。第一期なので硫酸工場も一工場だけです。

3期5年におよぶ拡張工事で敷地内はぎっしり工場で埋まりました。工場群としては、この昭和2年ころが最も整然として機能美に満ちあふれています。アンモニア合成塔も硫酸工場も電解工場も硫安工場もきちんときれいに拡張しています。3期工事の規模は1期と2期の合計に等しかったというので時間が少しかかっています。野口は延岡幹部にアンモニアがうまくできたら「事務所を作ってもいいぞ!」と約束していたとのことで、この時期、正門に面して瀟洒な事務所を見ることができます。