昭和10年の延岡駅

2025年2月12日

昭和10年11月15日午前11時37分ころの延岡駅の写真を紹介します。なぜここまで時刻が限定できるかというと、この日が昭和天皇の延岡行幸の日だからです。奥の駅舎については、その後の写真もいくつかありますが、駅前の道が整然として立派に整えられているを見るのは初めてで驚きました。昭和8年に市に昇格した延岡ですが、同時にレーヨン工場が稼働しはじめ、工場生産額は目まぐるしく上がっていきます。労働人口に引っ張られる形で市の人口も爆発的に増えていきます。延岡市としての動きも活発化します。今で言うところの市街化調整事業のようなものが盛んになります。道や橋が整えられます。塗装道路が出現します。日豊本線が本格化することにより、延岡の物流は海運から陸運へ劇的に変化します。

市になって二年目にいきなりの「天皇行幸」ですので、そりゃ舞い上がったことでしょう。沸き立つ喜びを謳歌した・・・というより、いきなりの表舞台になにをしてよいのかわからないくらい戸惑ったのではないかと思います。

この天皇行幸というイベントで、延岡市はかなり無理をして頑張りましたが、おかげで大きな変化を遂げます。その一つがこの延岡駅前の姿にあらわれているのではないかと思います。並木道は急いで植樹されたものです。二本の奉迎門は市民にコンペをつのり、優勝した人のアイデアだそうです。


雨模様の中、この日の朝宮崎驛を出発した昭和天皇を静かに待っているというところでしょうか・・・・

写真ではサイドカーに先導された天皇の乗った自動車車列が続きますが、これを鹵簿といいます。ロボと呼びます。鹵簿(ろぼ)は、天皇や皇族の外出時に整えられる儀仗警衛を伴った行列のことを指します。この車列はこれから新築なったばかりの板田橋を渡って、南町を通り城山へ向かいます。

このころ延岡にはまだ宮崎交通のバスはなく、「日の丸バス」という会社が頑張っていました。(写真の奥に見えます)

延岡は市になって二年もたたないのに、天皇行幸という大事業を引き受けることになりました。行幸というのは通常、軍隊の大規模演習のために行われることが多く、この年は鹿児島・都城の大演習に天皇は来られたわけですが、駐屯地のない延岡に立ち寄られたのは、かなり異例のことのように思われます。この日、天皇が訪れたのは城山城址と旭化成ベンベルグ工場の二箇所のみです。おそらくベンベルグ訪問が主な目的だったのではないかと妄想老人は想像します。当時の日本にとって野口遵の日窒コンツェルン(および延岡の工場群)は、私達が思う以上に輝かしい存在だったのではないでしょうか?

昭和天皇が科学者(海洋生物學)であったことは、広く知られていますが。そんな天皇ですからアンモニア合成、ベンベルグ絹糸製造をぜひ自ら見てみたいと思われたのではないでしょうか?

そうでもなければ、都城からわざわざ北上して延岡までこないのではないでしょうか?どうでしょう、皆様。

この写真は「延岡市行幸記念録」に掲載されていました。この立派な366頁におよぶ記録は昭和12年に発刊されています。戦前の天皇制がどんなものであったか、意外な切り口で教えてくれる本かもしれません。

「延岡市行幸記念録」昭和12年