昭和10年頃のレーヨン工場と社宅
2024年9月21日
2024年9月20日に発見した(妄想老人がネットから発見した)戦前の中川原社宅とレーヨン工場です。昭和12年以前の写真です。この15年くらいいろんな資料を渉猟し、旭社宅の写真もいくつか見ますが、ここまで社宅が鮮明に記録された写真は初めてです。この写真は日本窒素肥料事業大観 : 創立三〇周年記念 366頁に出てきますが、この写真を見つけたときは鳥肌が立ちました。ご覧になりたい方は「国立国会図書館デジタルコレクション」にあります。この本は非売品であり、実物が全国の図書館のどこにあるのかわかりませんが、延岡の図書館にはありますでしょうか?写真が豊富でワクワクする本です。

さてレーヨン工場は昭和8年にレーヨンを生産し始めます。ですからこの写真はレーヨン工場と社宅のかなり初期(建設されて5年以内)のピカピカしていた時代の写真だと思います。別のコラムの写真で本通りの入口を見ましたが、この写真はその本通りの終点あたりが鮮明に描写されます。人が8人くらい歩いているのが見えませんか?社宅にはそれぞれ庭がついています。各社宅の境界は私が住んでいた頃は、スレートの壁でしたが、このころはどうだったのでしょうか。とにかく自分が住んでいた昭和後期時代の社宅より、数段立派に見えます。驚くべき威容といってもよい。きれいなたたずまいです。
いつまで眺めていても飽きない。本通りの左側の社宅を「北社宅」といいますが、その北1-7号の庭に若干しなった竿のようなものが立っているのがわかりますか? よく見ると本通りの真ん中あたりの社宅や北3-4号にも見えますが、これも先程電撃的に思い出しました。まったく忘れていた光景を思い出す日々は楽しいですが、これは5月の男子の節句に鯉のぼりを泳がせる竹竿ですね。節句の季節、気持ちのよい5月初旬には社宅のあちらこちらで鯉のぼりが泳いでいたものでした。
レーヨン工場もできたばかりできれいです。この頃のレーヨン地区は100mx200mの二階建ての大工場が平行に3棟建てられていたとの記録がありますが、その一端が左上に見えます。他の航空写真ではこの先、祝子川方向にあと2棟見えます。
煙突が二本しか見えないのが、時代考証に役立つかもしれませんが、残念ながら煙突建立の歴史までは検証不能です。
社宅の左に大学新卒の独身社員(後の幹部候補)のための二階建ての麗陽荘が見えます。これは私にはショックでした。この建物を昭和後期の私はこの形で覚えています(ということを思い出しました、ややこしい)。まったくのデジャブで、忘れていた光景を60年ぶりに思い出した次第です。後頭部を殴られたような思いです。麗陽荘の向こうには麗陽倶楽部という社交場がありました。浴場近くの旭陽倶楽部が大衆的だったのに比べ、麗陽倶楽部はゴージャスでした。食べたことはないけれど、フランス料理のフルコースが出されるとの噂でした。
右端は本通り社宅ですが、その右側に開通したばかりの「日ノ影線」があるはずです。

日ノ影線は昭和10年に日向岡元、昭和11年に川水流まで、昭和12年には槙峰まで開通し、時代がどんどん動いていく時代の写真です。ついでにいうと延岡市が誕生したのが昭和8年、昭和11年に東海村と伊形村が合併します。
逆にたどると、この写真の10年前には、このあたりには何もなかった。広大な湿地帯の中に、わずかに田畑が散在していたと想像されます。なにも無かった中川原が、10年でここまで変わったという最初期の写真でございました。
もう一度参照データを記します。
日本窒素肥料株式会社 編『日本窒素肥料事業大観 : 創立三〇周年記念』
日本窒素肥料,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1207944
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