昭和20年大空襲直前の延岡_病院・医院

2025年9月7日

延岡のお医者さんの移り変わりを調べると、戦争(太平洋戦争)が大きな影を投げかけているのがわかります。一つは大空襲です。戦前、大いに活躍されていた病院・医院が戦後パタと名前が見当たらなくなることに気が付きます。1945年6月29日に延岡大空襲で戦災に遭われたものと推察されます。今一つは軍医さんとして応召されていた方々の帰国、外地で活躍されていたものの敗戦で日本に引き上げざるを得なかった先生方の存在です。今年で80年たつので、差し障りのない範囲で紹介しておきたいと思います。

まず引用したいのは「空襲前、延岡小学校校区、住居地図」です。この貴重なpdf ファイルがどのような経緯で手に入ったか忘れてしまいましたが、この地図は延岡小学校の卒業生のみなさんが「あがた会30周年記念作成」として自分たちの記憶を掘り起こして作成された労作だと思われます。平成8年10月26日の「第32回あがた会総会」で発行されています。引用させていただくにあたって、連絡先が記載されていますので併記しておきます。

代表世話人:桂 弘道 桂耳鼻咽喉科医院 東京都葛飾区青戸1-7-6 (03-3691-3069 )

昭和13年に延岡小学校を卒業されています。空襲の時は20歳前後でしょうか。少し前までのネット情報では桂耳鼻科は葛飾区に案内がありますが、現時点ではすでに閉院されている模様です。

なおこの校区には三福寺の真ん前に桂徳次郎先生が「桂耳鼻科」という医院で開業されています(地図にも記載があります)。延岡のお医者さんの情報で最も古いものは大正8年のものですが、これには記載がなく大正11年から登場されます。桂徳次郎先生は明治18年生まれで長崎医専ご出身、桂 弘道先生と無関係とはとても思えません。おそらく御子息かと推察されます。

次に空襲直前の医院・病院を緑色で記します。(桂耳鼻科は赤色)

北から小林小児科、山中産婦人科、桂耳鼻科、田中内科、河野医院、染矢小児科、早川医院、片寄外科・内科

         (余計なことですが、この地図のどこかに「アズマヤ」があります。探してみてください)

川北地区を付記;赤須病院、青山眼科、石坂産婦人科、福田病院が加わります。