朝鮮半島の姉妹都市?
延岡市民の皆さんは北朝鮮の「咸興・興南」という町のことをどれだけ知っているでしょうか?あるいは意識したことがあるでしょうか?
「咸興・興南」というのは今の北朝鮮の日本海側に位置し、感覚的には新潟市ないしは敦賀市の対岸といってもよい場所にあります。朝鮮・韓国の主要な都市から程遠いものの、大正後期にようやく鉄道の敷設も進んだ咸興は北朝鮮の地方都市の一つといって良い存在でした。そこから南西に30kmくらい離れた興南地区は交通手段がない明治・大正時代はほとんど人の住んでいない寒村であり「人家が20〜30戸しかない寂しい漁村」と記述されています。
この興南は野口遵により延岡に次ぐコンビナート建設対象に選ばれます。そして大正・昭和にかけて大変貌を遂げていきます。そうなんです、延岡に極めてよく似た街なんです。姉妹都市といってもよいかもしれません。もちろん延岡の方が4〜5歳年上のお姉さんですが、この妹の発達速度はめざましく、最終的には延岡を初めとする日本国内(内地)の日窒関連工場のすべてを凌駕する一大コンビナートになります。
さてどのような経緯で野口はこの場所を選んだのでしょうか?このことを調べるのには随分時間がかかりましたが、このテーマにについては資料が比較的多く、しかもとびきり面白い。テーマがどんどん広がっていくので困ってしまうくらい面白い。
延岡にアンモニア工場ができて最初の肥料が出荷され始めるのは大正13年ころです。延岡に最初の橋頭堡はできたが、まだまだ日本全国の需要を満たすだけの生産量(硫安肥料)には程遠かった。このままでは格安な海外硫安に負けてしまう。またほっておいたら三菱・三井・住友などの財閥が動き出し、あっというまに自分の作った日窒なんていう新興企業は吹き飛ばされてしまう。そうならないためにはどうしたらよいのだろうか・・? 野口は切実に悩みます。
とにかく硫安肥料の生産量を桁違いに増やすことだ。日本のみならず世界の肥料生産における主要企業にならなくてはいけない。それも二位を圧倒的に引き離す存在だ。つまるところ世界の肥料生産を独占したい・・・そう考えたのが野口の偉大なところです。
水と電気さえあれば巨大コンビナートはまだまだ開発できる。ところが河川、ダム建設地、工場立地条件そして物流のための鉄道・港湾・・・が揃った地域は、日本国内には、もうなかなか見つからない。あるいはすでに財閥系の会社に押さえられており、交渉、買収、利権のいずれもが難題であった。その中で1910年に併合された朝鮮が野口の視野に入ってきます。朝鮮の北部は水資源が豊富です。南部に比べて山岳地帯が多いものの未開拓の土地が多そうです。しかし地図を初めとして考えるための基礎資料(朝鮮の5万分の1の地図が完成するのは、このすぐあと)が全くなかったため、行き詰まります。もどかしいが先へ進めない。
ところで日本には同じ時代に朝鮮に目をつけた人間があと二人いたのです。この二人がいたことが野口と日本窒素と朝鮮と日本の運命を変えていきます。水利関係で国内でダム建設や河川工事に経験のある森田一雄と久保田豊です。この二人も内地開発にあきたらず、大規模な電源開発を目指して朝鮮に目を向けていました。久保田はすでに朝鮮を何度も訪れ、出来上がったばかりの5万分の1の地図を数百枚も入手済みでした。朝鮮へ渡りたい森田は、最近何度も朝鮮渡航を繰り返していると噂の久保田のもとを訪れます。お互いに相手をプロとして知ってはいましたが、初対面でした。
久保田の事務所で森田は5万分の1の地図を目にします。彼は地図を元にどこにダムを作れば、どれくらいのダム湖ができ、発電量はどれくらいかがすぐにわかるような専門家でしたが、ちょっと目にしただけですぐに、日本とは比較にならない大規模な電源開発が可能な場所が見えてきます。森田と久保田は意気投合します。そして森田はすべての地図を久保田から借り、ひと夏の間にすべての研究を終え数カ所の候補地を策定し久保田のもとを再び訪れます。久保田はダム建設・発電所建設全般に通じていたので、その候補地に発電所を作ることが可能なのか、費用の概算などがわかります。二人は目を輝かして、ダム発電所建設プロジェクトを作り上げることに没頭しました。
ここで候補に上がった2つの川が「赴戦江」と「長津江」です。賢明な皆様はこれらの川が延岡では「五ヶ瀬川」に相当するのだな、そしてこの川の河口近くに「興南」という街があるんだね、と思われたことでしょう。違うんです、皆様。この「赴戦江」と「長津江」は延岡にとっては熊本の「白川」や「球磨川」に相当するんです。山脈の向こう側。
なんだかわけがわからなくなったでしょう。実はここがこの話の一番面白いところです。長くなるので本日はここまで。
