興南工場の建設

2025.11.8

これまで野口遵の朝鮮開発については、ダムと発電所建設を牽引した「久保田豊」の伝記を中心に記述してきました。
大正15年に朝鮮水電株式会社が設立され、赴戦江水電工事が始まりましたが、その1年後には朝鮮窒素肥料株式会社設立、興南工場の建設が始まります。電力開発のめどが立って、コンビナート建設が始まったということです。

この興南コンビナートの建設については、牽引役は白石宗城という男でした。白石は大正3年に最初期時代の日本窒素に入社し、日本窒素にとっては重要人物となります。水俣の初期工場、ついで延岡工場建設現場を支え、その後朝鮮興南に渡りました。ダム・発電所の工事に合わせるように、興南工場の建設・その拡張工事を請負い、巨大コンビナートとなった興南地区の工場長・支社長として敗戦まで君臨しました。戦後日本に復員後は水俣のチッソの社長を務めています。

その白石宗城は1977年に出版された「日本窒素史への証言」という記録集(国立国会図書館)の第一巻・巻頭をかざる証言を残しており、水俣・延岡そして興南時代について語っています。

興南工場の建築では、この白石の証言を引用してみたいと思います。

最初のアンモニア合成工場が延岡に完成した直後のころの引用から始めます。


・・・・アンモニア合成だが、(原価は)金利を入れないで硫安トン当り四十円ぐらい、金利を入れても六、七十円だった。硫安は(販売価格が)トン百円ぐらいだから、儲かるわけで、大規模にやろうということになった。そこで水力電気のよいところを探しだした。

最初に屋久島を考えた。黒部川、只見川も考えた。手がけられたのは糸魚川だったが、洪水で発電所がつぶれた。工場の機械を発註してあるのに発電所がつぶれたので、鏡に工場をつくった。屋久島もだめだった。大正十二年の暮頃、朝鮮が問題になった。もっと大規模にしようと、十三年はじめから調べにかかり、暮から実地調査に入った。もちろん赴戦江、長津江のように、東側に水を落とす考えだった。僕も大正十三年に、工場の地を求めて、興南付近に行った。

三 興南工場のこと

大正十四年には、工場を興南にするか、元山にするかを検討していた。西湖津では港が狭すぎる朝鮮総督府が西湖津の南の湖南里に築港許画をたてていると教えてくれた。総督府のかなりの地位の人から話をきいたので、見に行った。よさそうなので、湖南里にきめることにした。当時の金で百万円ぐらいの建設費を計画し、港の手前の土地を買上げることにした。たしか七十万坪ぐらいを、工場と社宅の用地として計画し、大正十五年から買収にかかった。大正十五年十二月に現地に行き、警察署長もついてきて、住民を集めて用地買収を公表した。

当時坪十銭ぐらいの土地を三十銭で、宅地は一円で買うというので、みんな喜んだ。二、三人売らんというものがいて、訴訟になった。十二月二十五日の夜九龍里に泊ったが、寒い夜だった。オンドルの部屋だった。当時九龍里は、四、五十軒の民家の小さな部落だった。この日大正天皇が崩御された。湖南里には三十軒ぐらいの民家があったが、全部買収した。当時の写真にうつっている。

後に湖南里の小学校ができた所の近くに、仮事務所をバラックでつくり、社宅のできるまで、そこを臨時の合宿にした。社宅は昭和二年に一部できた。その春内田安弥太、永里高雄、工藤宏規ら、二、三十名の人たちがきた。その人たちは内田さんを除いて、みな亡くなった。建設でも苦労したことはたいしてなかった。労務者は山東省の苦力が多かった。西松組がつれて来たのだ。

僕の家は、それからずっと興南だった。京城支社長になってからも、終戦までは住居は興南だった。

工場建設前の興南の村邑の景色:この土地を70万坪(100万円)で購入した。

昭和二年、次なるコンビナート建設のために朝鮮・興南地区に延岡から派遣される先遣隊。中央に白石宗城、永里高雄ら重役陣。その周囲は技術者等々。そして恒富工場の社宅を建設した建築技師たちも、この一陣に含まれた。写真はその「送別記念写真」である。

興南硫安肥料工場の全景:右に製品積み出し用の大桟橋が見える。この工場は最初期に作られた。その後興南地区に作られた巨大工場群については次の地図を参考にしてください。

赤:工場群  緑:社宅