宗兄弟以前の旭化成陸上部を懐かしむ

2022年08月21日

下の写真は昭和42年8月23日に撮られたレーヨン・グランドです。現在と異なる点がいくつもありますが、一番大きな違いは併設された野球場(複数の試合が同時にできていた)の存在です。グランドと野球場では、工場主催の運動会が行われていた記憶があります。次に違うのが、トラックの向きです。今とは90度違うようです。更に大きな違いは、白く明瞭なしかし細くカーブのきついトラックが目立ちますが、実はこれはサブトラックであり、本当のトラックはその内側の「ぼやっとした」走路です。よく見ると短距離走用の走路も見えます。このメイン・トラックの周径はいかほどなのか?(私はこれは400mと思っていましたが、写真をみるとそこまでないですね)。

工場大運動会の入場行進風景

旭化成陸上部の生みの親:黒田義久

旭化成の”ドン”黒田:月に向かって走れ : 

九州一周駅伝三十年史(金子厚男 著 碩文社, 1981.12)

黒田さんという面白い人が昭和23年に延岡に赴任してきたことで、旭化成には陸上部が生まれました。黒田さんは東大でラグビー部に所属していましたが、陸上は全くの素人です。昭和23年から10年にわたって旭化成陸上部の基礎を作りました。九州一周駅伝では常に宮崎県チームのジープの助手席に座り続けていたといいます。いろいろなエピソードが書物に残されていますが、一番面白かったのは旭化成が陸上競技部の50年を記念して作った「激走」という書物に残されている「初代部長黒田義久氏を偲ぶ」という鼎談でしょう。そんな黒田さんですが、その後は旭化成の経営幹部のど真ん中を出世し、常務、専務を経て最後は副社長になり宮崎輝社長を支えたのでした。

黒田さん陸上の経験はないとはいえ、足はめっぽう早く、陸上部の多くの長距離選手より100mは速かったそうです。12秒フラットくらいでは走っていたらしい。

さて旭化成陸上部にはもうひとり重役になった人がいます。3000障害が専門だった坂本修一氏です。この方も黒田さんと同じく東大卒。ちなみに3000障害の旭化成記録は2016年の市田孝選手ですが、それ以前の記録はこの坂本修一選手が1983年に出した8分43秒2。市田孝選手は33年ぶりの更新だったそうです。坂本さんは現在も旭化成の取締役であり、同時に日本実業団陸上競技連合会長でもあります。