昭和9年と30年頃のレーヨン工場と社宅:
疑似カラー化写真による再構成
2026年3月11日
まずレーヨン工場と旭社宅を二枚、疑似カラー化します。一枚は再掲となりますが、自分が住んだことがある方には特に懐かしい写真でしょう。

昭和30年ころのレーヨン工場の西門周辺。北社宅が見えています。引込線の右端は遮断器のある踏切。一方工場の東側は小家屋が並んでいますが、その向こうは(隠れていますが)日豊本線であり、田畑が広がります。中の瀬に寮が見え、二硫化工場と続く。(「宮崎100年史」114頁より引用:宮崎日日新聞(1982年))

昭和9年頃のレーヨン工場(再掲)。3次拡張工事後のほぼ完成形に近づいたレーヨン工場。鯉のぼりの竹竿が見える。煙突がまだ2本。(オリジナルは「日本窒素肥料事業大観 : 創立三〇周年記念」(1937年))

以前パノラマ写真として3枚(この3枚は出所不明です)をつなげて紹介した写真を一枚づつカラー化してみました。これは今の旭小学校の敷地ですが、戦前は延岡商業学校でした。もともと恒富供給所の場所(現在の旭化成事務所)にあった商業学校は延岡市と日本窒素の間の協議で土地交換を行い、中川原に移ってきました。昭和8年のことです。
旭小学校の現在の広い校庭の場所に当時は校舎がありました。学校の北側は日ノ影線の高架で遮られています。レーヨン工場への引込み線はよくわかりませんが、次の写真では見えます。日ノ影線の向こうにある比較的大きな建物が知りたいのですがわからない。武道場だとは思うのですが・・・
広い運動場のなかに生徒たちが写っています。数えてみると16人います。この写真がいつの写真かよくわからいのが残念です。同時に撮られたレーヨン工場の煙突が3本なのと、二硫化工場の他に旭有機材の工場が見えているような気もしますので、このあたりで時代考証ができるとよいのですが、小生には難しい。
学校の右手には学校の境の屏が見えますが、この外側に道路があり、その右手に「どんどん川」が流れています。拡大してみます。どんどん川が写真で残っているとうれしいのですが、これまで一枚も見たことがないのが残念。この写真が唯一かもしれない。

学校の正門の横の道路と並行して流れる「どんどん川」

運動場の学生が2つに別れていますから、撮られたタイミングは三枚の写真で異なるのでしょう。当時15歳前後だった彼らのその後はどうだったんでしょうね。
この写真を拡大すると更に人が見えてきました。実は日之影線の線路に二人座っているのを発見したよ!!

こんなのを発見できるから疑似カラー化は楽しいです。何を語っているのでしょう、昭和初期の彼らは・・・。
さて線路の向こうですが、おそらく弓道場が写っているのだと思います。赤い屋根はAIの暴走のような気がする。

ここには生徒が12名写っています。影に注目すると午後もかなり遅くではないかと思います。放課後に遊んでいるのでしょうか?運動場の端にバックネット様のものが写っていますが、野球はもう日本の学校には入ってきているのでしょうか?
日ノ影線が高架状に走っているのは、実は極めて人工的で不自然です。明らかに盛り土の上を走っているわけです。妄想老人は若い頃からこれが不思議でならなかった。延岡の歴史の中でも結構大きな謎の一つだと思っています。
この日ノ影線と旭小の校庭の間には昭和40年頃には鉄柵がありました。簡単には侵入できないようになっていた(とはいえ探せば隙間だらけでしたがね)。先程の二人といい、学校の校庭から簡単に線路に上がっていけるような道あるいは階段が、昔はあったようで、随分おおらかな時代だったものだと思いました。

社宅だけが明るい灰色の屋根になっているのは、たまたまです。今の駐車場のあたりですが、この社宅の風景は昭和8年から平成初年まで続きました。その後は大きく、大きく変わってしまった。往時の日ノ影線のガードを拡大しておきます。

最後に昭和30年頃のレーヨン工場と山月町です。コンクリートの新しい建物は、旭化成の男子寮です。このすぐ右手に立派なテニスコートが二面ありました。レーヨン工場は100 x 200メートル・二層(二階))の巨大な工場ですが、ここには2号棟と3号棟が写っています。一号棟は右の方に隣接しています。(「宮崎100年史」114頁より引用:宮崎日日新聞(1982年))
