昭和10年の南延岡駅長談話
2026年4月10日

昭和10年単年度の新規求人が6000人というのはすごくないですか?冒頭の引越荷物を満載したトラックや荷車に出会わぬことが稀というのも活況を表していますね。
「耳のよいひとならアメリカ人の私語が聞こえる」というのは面白い。

- ズバ抜けて物価の高いこと、容易に借家の手に入らぬ事。
- 昭和9年6月には人口4万6千だったのが、今日で5万以上、年末には6万以上、そして昭和11年には7万人近くになるというのは、このころの延岡の勢いを示していますね。
- 寄宿舎の女工が3000人というのもすごい数ですが、これを市に届け出ていないというのもいい加減というかなんというか・・・。課長の一言3000人を生む・・・面白い。
- 痘瘡(天然痘))が流行するのも怖い話です。もっとも令和の日本では「麻疹」が流行り始めていますけどね。

当時のレーヨン工場の詳細です。昭和10年初めは第1工場のみ、4月には第二工場が稼働開始。11年には第三工場がそろい、あわせて日産30トンのレーヨン製造ということです。従業員は現在2800名が来年には8200名と3倍増になる。
最後の文章がとても興味深いのです。原料パルプは細島まで汽船、そのあと汽車。燃料炭は北九州若松より延岡港まで帆船、延岡港からレーヨン工場までは「工場専用の軽便軌道」で運搬しているとのこと。レーヨン工場と延岡港を結ぶレールが見てみたいです。昭和20年台にレーヨン工場と二硫化工場を結んでいた「まぼろしの引っ込み線」の経路がこれに相当するのではないかと、老人は妄想する。
アンモニア工場や薬品工場の建設の際には、ヨーロッパから大型の機械が多く延岡に搬入されていますが、これがどこを経由して運ばれたか、ほとんど記録がないのです。港から軽便鐵道という記録を昔読んだことがあるような気がするが朦朧としています。いずれはっきりさせたい事項の一つです。