昭和41年のバス路線:②号線開始・・
2026年5月17日
昭和36年から5年が過ぎ、昭和41年になると延岡市内には②号線がすでに走り始めています。この昭和41年〜42年にバス路線の拡充が行われ、バス停も増え、またバス停の名前も大きく変わっていきました。三軒家、北町、南町、春日館通、丸が島、中島通、保健所前、局前、上大瀬などの名称がなくなりました。また中央通り、安賀多町、愛宕町に複数の多くの停留所が生まれました。
この激動の時代を乗り越え、昭和30年前半から現代まで一分の狂いもなく生き延びた停留所はたった6ヶ所だけです。
北から恵比須町、祇園町、方財、別府、上平原、下平原。
この他のバス停は微妙に名前が変わります。延岡駅ー延岡駅前、仲町ー中町、レーヨン正門前ーレーヨン前、北門ー北門前ー北門通り等々。また令和7年三輪線が廃止された(これは最近知りました。驚きました。)ために多くの停留所がなくなりましたが、本当に残念です。

②号線が走り始めて、おそらく最初期の路線図だと思われる昭和41年の地図です。仲町ー市役所前ー城山公園入口ー大瀬橋北詰ー大瀬町一丁目ー局前ー大瀬町三丁目ー安賀多町と②号線のオリジナル経路が認められます。
小さなことですがせっかく地図を出したので、気がついたことをあと6つほど・・・
- 「城山公園入口」というバス停は上の昭和41年版にしか登場しません。
- 大瀬川の河畔に「延岡市家畜市場」がありました。バス停も同名でした。今の大貫三丁目です。
- この当時、県立病院にバスで行くなら「大瀬町三丁目」で降りることになるのでしょう。
- 城山の西にNHK放送局がありますが、わざわざ「電波塔」の表記があります。電波はここからも出ていたのでしょうか?・・・では愛宕山の電波塔はいつ頃建設されたんでしょう?いずれ調べましょう。
- 恒富供給所がはっきりと表示されています。
- 旭化成工場病院(恒富病院)の場所が長らくわかりませんでしたが、昭和30〜40年の3〜4枚の地図に本当に痕跡のように小さな病院マークが載っているのを発見しました。旭化成グランドの近くに戦前からある寄宿舎の中です。探してみてください。今の電子工場の中?ここにあったのではないかと思います。手持ちの唯一の病院の写真で見える周りの景色が異なるので確信が持てません(写真が撮られた時期のあとに大空襲があったのかもしれないですが・・)
病院一つとはいえ、そのおかれた場所に会社の考えが現れると妄想老人は考えます。レーヨンやダイナマイトでは明らかに工場内に病院がありました。まず何をおいて従業員の事故・急病対応です。次いで職員家族への福利厚生。おそらく空襲前は恒富病院はベンベルグ工場の中(それもアンモニア工場の近くではないかと)にあったと思います。工場に事故はつきものでしょうから動線は短くしたいです。
で、寄宿舎の中に病院が移った?優しく考えるなら、これは3000人以上が住んでいた「女子工員」のための配慮かな。
次の路線図に話題を移します。同じ昭和41年の宮交の時刻表掲載の路線図ですが、②号線の大きな変化に気づきます。
仲町を通るオリジナル路線の他に、北小路ー亀井橋を渡る路線、局前がなくなり新小路を通る路線、延岡高校ー恒富ー県病前を通る路線が加わりますが、これがどう組み合わさって実際のバス路線になっていたのかは、妄想老人には残念ながらわかりません。
いずれにせよ、短期間にかなりの変化があったことがわかります。

不思議な路線は祝子川の手前(東中川原)から西方向に祝子川沿いにルートをとり、小山橋をわたって祝子停留所から再度東方向に向きを戻し夏田町ー桜ヶ丘を目指す路線です。夏田ー桜ヶ丘を目指すなら祝子川を渡って向かえばよいのに、なぜこんな不思議なルートを選んだんでしょう?
天下橋に至る路線は今と同様に大瀬橋北詰から西を目指し大貫、延岡西高校、南方小を通りますが、西階中から迂回し大瀬川左岸を町中に戻るループのような路線があり、これは今はなき延岡家畜市場前(今の大貫3丁目)を通って元のルートに合流します。
学園前と雷管はまだつながっていません。
方財はこのころは陸続きですので、丸が島(長浜町)を回って砂州の中を北上することになります。ちなみに丸が島ー方財間が市内バス路線で停留所間が最長であり、そのためか方財は均一料金区間から外れ、料金が上がります。

その他の路線について(路線図はだしません)
- 祝子川を遡り市外に出ていくルートはこのころは小山橋を渡り左岸沿いに桑平を遡上し北祝子に至る路線がひとつだけでしたが、その後小山橋を渡らずに右岸を遡上し、柚木、宇和田、鹿狩瀬を通って桑平に至る路線が増えています。
- 土々呂の先は最終「赤水」が終点でした。
- 北川方面では「下赤」が終点でした。