レーヨン工場の誕生(1)

2026年6月14日

レーヨン工場は大正15年に中川原に用地買収が行われてから、完成までに約8年かかっています。この空白の期間のことを最初に述べておくこととしましょう。元の資料は「レーヨン部史」と呼ばれる1959年発行の書物です。書物というほど分厚くない小冊子。この小冊子は残念ながら国立国会図書館のデジタルコレクションには登録されていません。ネットの古書店で見ることもありません。Googleなどでもダイレクトには検索にかかりません。わずかに一部の図書館に残っているようです。延岡図書館にはたぶんあると思います。私もたまたまコピーで中身の一部を持っていますが、冊子の最後に付随している「レーヨン部外史」という一文がなかなか面白いので、これを引用してみましょう。

〔附録〕レーヨン部外史

「工場誘致」

大正十四年の初夏。今山八幡の裏参道の石段を、威勢のいい青年たちが、筵(むしろ)左旗を押し立てて駆け登っていくと、それを追いかけるように、群衆がぞくぞくと頂きをめざして登っていった。ずいぶんな人出である。真新しいむしろの表には「工場誘致既成同盟」と、黒々と染め抜かれていた。

二千七百戸もあるこの岡富村が、数年来、ともすると恒富村や延岡町の活気に押されて、縮こまっているように思えてならなかった。やはり肥料工場ができたということが、恒富や延岡のエネルギーの源泉となったからだろう。

ところが最近になって、耳寄りなうわさが岡富の人たちの間に広まってきた。

「お前どみや、きいたね、三軒やんふてえ会社がたつけながあ」

「恒富よかあなんべえも、あつとぢやげなあど」

利権屋〔機を見るに敏な商人〕が思惑し、商人がほくそ笑み、若者たちが憧れ出した。一人ひとりの想いが渦を巻いて、ついに村民大会が催されることになった。

むしろ旗を囲んで、来館前の広場を埋めつくした群衆のなかから、村長・川澄民七氏が抜け出して壇上に立った。豪放磊落、村民の信望を一身に集めた村長が、じゅんじゅんと説くことばに、村民は一々うなずいた。

上方〔かみがた〕の中川原に工場設置の計画があること。工場誘致により村の財政・経済・文化が飛躍的に向上し、懸案の三町村合併が実現すること。工場建設が、ただ一市一村の繁栄にとどまらず、宮崎県の繁栄となり、国家的にも大きな意義のあること――。

村長が説き終わると、期せずして群衆のなかから拍手が起こり、それが前後左右に伝わって大きな嵐となり、八幡様の森にこだましていった。ただちに工場誘致既成同盟の設立を全村あげて確認し、その完遂のために五名の委員が選出された。こうしてレーヨン工場の形成は、岡富村民の明るい希望のうちに進められることになったのである。

人造絹糸が発明されてから、かれこれ六十年になるが、本当に糸らしい糸ができるようになったのは、ここ三十年来のことであり、代用品の域を脱して独特の分野を開拓したのは、ごく最近のことに属する。

街をゆくお嬢さんや奥さんのワンピースは、ほとんど全部といってもいいくらいレーヨン一色である。それでいて、おじさんがたに言わせると「人絹はね」である。御自分のお召し物が人絹であることを少しも御存知ないらしい。それもそのはず、人絹の製造技術はどんどん進んでいるのに、それを贈る人の頭はずっと遅れているのだから。

レーヨンが最も進歩したのはアメリカとドイツである。ドイツは科学万能の国だけあって、昔から化学繊維については各国に抜きん出て発達していた。レーヨン部の前身である大工場建設の頃、ドイツから優秀な技師が工場に乗り込んできて、工場の設計や製法の指導にあたった。この技術家たちのあいだでも、特に優れた化学者にメーナー博士がいた。工場建設に多忙な日々の寸暇をさいて、日本の大学を出たばかりの若き科学者たちに化学を教えていた。その講義は、化学のA・B・Cをかんで含めるように教えるものであった。これを受けるほうは、ともかく日本の最高学府を出た新知識と、自他ともに許した人たちであったのだから、当時の日本とドイツの化学水準の差がいかばかりであったか、うかがい知れよう。

ドイツ人の話が出たので、ドイツの人絹と旭の関係、それと当時の日本の人絹業界とも申すものをお話ししておこう。

はじめにちょっと触れたヴィスコース人絹の発明は、一八九一年(明治二十四年)、イギリスのクロス、ビバン、ビードルの三人によってなされたことになっている。日本では、これとは別に明治四十五年、三重工業学校の一少年が紡口を発明して、日本人にも自由に糸ができるようになったという。

この発明を基礎として工業化したのが、わが人絹会社のらんしょう〔濫觴・はじまり〕、東洋人造絹糸という会社である。資本金わずか五万円、今から考えるとうそのような話であるが、中島朝次郎氏を技師長として、恒富のベンベルグ工場と同じ銅アンモニア法を採用して生産を始めた。しかし、もちろんその優雅高級をうたわれている現代のベンベルグとは、名は同じでも中味は全然ちがっていた。

人絹が企業として成立するようになったのは、大正七、八年、旭人絹と帝国人絹が創立された頃からである。その旭人絹はすぐ旭絹織に改組され、帝国人絹とともに我が国人絹工業の旗頭として、天下を二分して発展していったのである。

先祖の戒名を持ち出したので、ついでながら旭一家の系図にちょっと触れておこう。レーヨン部はベンベルグ部とは腹違いの姉妹で、レーヨン部が旭絹織と日本窒素の間にできた子であるのに対し、ベンベルグ部は日本ベンベルグの御曹子だ。ダイナマイト部は日窒火薬からの養子で、プラス、雷管の三兄弟と一緒に入籍されたことになっている。世帯が大きいだけ、家系もなかなか複雑である。

さて、東洋人絹は大正六年、事業不振のためつぶれて、特許を日本人絹に譲ったが、これまたふるわず、すぐ破産してしまった。次々に投機的に建設された会社が、いずれも泡沫のように消えた。さすがはお蚕〔おかいこさん〕の国柄だけに、人絹工場はなかなか育たなかったらしい。

その頃(大正十年)、野口さん(のちの日本窒素、旭ベンベルグの社長)が、はるばるドイツにおもむき、人絹工業の進歩をまのあたりに見て、この新興工業の洋々たる前途にひどくほれこみ、このすぐれた技術を日本に導入しようと決心した。そして、グランツストッフ社との提携に成功したのである。これが、十数年にして早くも世界第一の生産にまで躍進した日本人絹工業の萌芽である。

体一つに抱負をかかえて、意気揚々と帰朝した野口さんに対する日本窒素の風あたりは、こと人絹に関しては案外つめたかった。日本窒素重役の席上、野口さんの人絹工業建設案には、各重役とも反対意見を述べた。

「日本は世界最大の生糸生産国である。政府はその保護奨励策には随分腐心しているが、人絹に対しては全然無関心である」

「人絹は水に濡らすとすぐ切れてしまう。そんなものを作っても売れるはずがない」

「新設の人絹会社が、いずれも二、三年でつぶれているではないか」

などと。ただ市川誠次、堀啓次郎の両重役だけが、社長の意見に賛同した。

野口さんはついに、日本窒素の手で人絹工業を興すことを断念し、市川・堀両氏の協力を得て、喜多氏(日本綿花社長)とともに旭絹織の設立に着手した。こうして大正十一年五月、喜多氏を代表とする日綿系の資本と、野口氏を長とする日窒系の技術が相協力して、資本金二百万円で旭絹織株式会社が発足し、喜多又蔵氏を社長に推し、野口氏が専務に就任したのである。

琵琶湖畔の膳所〔ぜぜ〕に工場の建設がはじまり、同時に、技術提携の約束どおりドイツから、オッペンデンダー、オーベンドルファー氏らが来朝して建設の指導にあたった。ここに、日本式による帝国人絹と、ドイツ式の旭絹織の二社が、日本の人絹業界に相対立する勢力として成立し、猛烈な争覇戦の火ぶたを切って落とす次第と相成るわけだ。

大津工場が完成して運転を開始すると、すこぶる優秀な糸ができた。人絹に対する識者の認識が改まり、政府をして人絹保護政策をも考えしめるに至った(大正十五年には人絹輸入関税の大幅引き上げとなった)。一般の需要も少しずつ増加しはじめた。

ところが大津工場は、旭人絹以来のもので、土地が狭くて拡張に不便であり、拡張するだけ拡張したあとは、どうにもできなくなった。そこで、水を求めて工場適地を全国にわたってさがした。

人絹工業と水。それは魚と水の関係にも勝る。美しい水、良質の水が、人絹工業には絶対に必要だった。ひとたびは和歌山県下に白羽の矢が立てられたが、交通不便ということで沙汰やみとなった。すでに工場を建設している日本窒素との因縁(現在の薬品部)と、まれにみる清澄な流れ、祝子川〔ほうりがわ〕の水にひかれて、延岡に工場を建設する計画が首脳部の間に進展するようになった。

この頃、はじめに述べたように、延岡でも工場建設のうわさが流れだし、今山の村民大会までが行われていたのである。

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