レーヨン工場の誕生(3)
2026年6月14日
ぶちあけた荒肌の工場用地にも、かげろうが燃え立つ昭和七年の春、工場建設が本決まりになった。飯島貞雄、平野浅吉、伊藤泰助の諸氏は、極秘裡に建設の準備を進め、官庁への折衝や願書の提出に忙殺された。わざわざお膳立ての終わった秋、飯島氏は岡富の有力者を郡役所会議室に招じて、工場建設を発表し、これまでのいきさつを説明し、
「今後ともご援助あらんことを」
と懇請した。五か年の永い永いうっぷんが一ぺんに吹きとんで、岡富にもようやく明るい陽がさしこんだ。
十月十四日、用地の中心部で起工式が、今山八幡・岩切社の修祓のもと、厳粛に執り行われた。大津の旭絹織からは、まだ誰も赴任していなかったので、恒富の工場からレーヨン工場に通っていた前記三名が主人側となり、まず飯島氏が改めて鍬入れをした。式典に列席した薬品、ベンベルグ、火薬などの各部の幹部が、今でこそ兄弟であるが、当時のレーヨン部にとっては、他社からの大切な来客であった。今昔の感ひとしおである。
西松組が乗り込んできて、六万坪の未整理地を勢いよく埋め立てた。柔らかい埴土〔へなつち〕を掘り起こして、しっかりした砂利に鉄骨を建て、基礎工事を始めた。やがて大津から乗り込んでくる人たちの社宅も急ぐ。それよりも第一に倉庫だ、といった具合で、猫の手も借りたい忙しさになった。そのうえ、鉄道省が日ノ影線の敷地敷設工事を始めた。
血気盛んな荒くれを多数かかえた新開地・中川原は、いつどんな騒ぎが起こるかもしれない。会社は請願巡査を申請した。現在の共同浴場付近に駐在所を設け、付近の警備にあたるとともに、小ぜり合いの裁きにもあたってもらった。この請願巡査が、現在の中川原派出所となって残った。会社が建てた派出所は、当時延岡一といわれるモダンなものだったが、歳月の流れにペンキもはげ、往年の面影もない。
レーヨン工場は、原料自給ということが、他所に例をみない絶対的な強味となっているが、苛性ソーダを薬品部から送るパイプ敷設には、須崎橋の上手に架橋せねばならないと考えていた。
当時、岡富と恒富をつなぐ五ヶ瀬橋、延岡と恒富にまたがる須崎橋は、一、二の橋といって、付近の人たちが橋梁会社を組織し、渡し賃をとっていた。土橋程度のもので、延岡名物の洪水に流されては架け、架けては流されていたから、流失橋梁の衝突をさけるためにも、この橋の上手にパイプを通すことにしていたのである。
市側から、須崎・五ヶ瀬の架橋に会社三万、県三万円の寄附を願えるなら、橋梁はコンクリート脚にしたいという申し入れがあった。ソーダパイプは、にわかにこれに鞍替えすることになった。
今にして古老はいう。
「会社の人は頭がいいですよ。十一万円もかかる工事に、たった三万円の寄附で橋は流されてもこわれないパイプを渡したからね。あのあとを見なさい。橋桁は流れてもコンクリート脚にはしっかりとパイプが残っているじゃないか」と。
しかし当時、街の人たちは、三万円の寄附を受けて、会社の気前のよさに敬意を表していたものだ。このおかげで今日に至るまで、ソーダパイプは安全に、先人の遺徳を残している
工場の建設が順調に進むと、ぼつぼつ大津工場からの転勤が始まった。旭絹織延岡工場長には辻井武吉氏が任命された。乗り込み第一陣は、工作の社員三名が昭和八年二月に延岡入りし、すぐあとに工作工員十四名が、すでに建設されていた社員合宿・麗陽荘に入った。
組長、伍長、教婦などという幹部工員が、続々とやって来た。これらの人たちは、あらかじめ延岡工場の指導要員として、数年前から大津工場に採用されていた人たちで、武勇伝を置き土産に残してきた者もあったようだ。N氏が十数名の要員候補者を連れて、延岡から大津の工場に出向いたとき、採用係に、
「もう延岡の人は採りません」
と断られたことがあった。どうもおかしい。いろいろ調べてみると
「延岡の人は、気が荒くてこまる。喧嘩はよくする。酔うたまかせで日本刀をさげ、料理屋にどなりこむ。そのあげくは、会社が油をしぼられる。村長の身元証明なんて、全くあてにならん、いい加減なものだ」
と。せっかくここまで連れてきて、おめおめ帰るわけにもいかず、途方にくれたが、ここで気をくじいてはと、工場長に会見を申し込んだ。採用係の言い分を反駁して、住民の窮状を訴えた。延岡工場の因縁を説いて、村長不信に対する弁論もした。
「村長の証明をどうこう言われるが、役場は、戸籍上、過去において問題がなければ、身元の証明はいたしますよ。将来の人物保証なんて、誰ができますか。徴兵検査で軍医さんが精密検査して甲種合格にしたからといっても、入隊後に病気する人はいくらもあるでしょう。甲種合格とて検査までのこと、その後のことは軍医さんもわかるまい」などと論じて、やっと採用してもらったとか。
こんな苦労を知ってか知らずか、延岡の人は、よそ目には平穏無事、新工場建設のために帰ってきた。もちろん、この地に初めての人もたくさん含まれていた。当時、石の坊ちゃん〔『苦心の学友』などの少年小説の主人公〕にも、日向の延岡は「船からあがって車で二日」と紹介されているくらいだから、大津あたりでは、僻遠の地・延岡には、まさか汽車は通っていまい、今別れたらもう生きては逢えまい、と親子水盃で別れてゆく者もいた。トンネル、またトンネル、六十幾つかの暗闇をくりぬけるうちには、
「こんな山奥に一人ぼっちでやってきて」
と、ついハンカチでまぶたを押さえる、うら若い教婦たちもいた。
建設工事
延岡の船つき場、十貫の瀬の河岸〔かし〕には、ベルトコンベアの塔がそびえ、セメントや鋼材が揚陸されていた。白梅組の若い連中が、法被〔はっぴ〕姿も勇ましく、トロッコで工場現場へ送り込んでいた。
現場では、本工場の建設と並行して、付属建物の工事も進められていた。正門横の自転車置場をスタートして、本工場を中心に左回りに、工作、雑品倉庫の順を追って、終点の硫酸工場まで、建物が完成したのは、本工場の完成と同じく昭和八年六月のことである。
本工場は、間口三百メートル、奥行百メートルもある、鉄骨・鉄筋・コンクリートづくりの大建築である。まだ足場もとれぬうちから、はや二階の原液、仕上などの機械据え付けが始められた。やがて地階の紡糸機がつく頃には、試運転のうわさも聞こえ、若い技術者の胸は希望に高鳴った。
大津工場の機械はドイツ製が多かったが、この頃になると、国内にも優秀なメーカーが生まれた。延岡では、野口さんの意に従って国産の機械を――野上工業とか、大阪機械、川西機械などから買い入れた。火力発電所は整地が遅れたので、突貫作業で追いかけた。寄宿舎や北旭の社宅なども、どうやら試運転の頃には建て終わって、新しい岡富のカラーを作り出そうとしていた。
埋立地の赤土は、柔らかくふくらんで、雨でも降ると、文字どおり膝を埋めるぬかるみとなった。移住してきたばかりの社宅の奥さんたちは、この新道を、男物のゴム長を履いて、町へ買物に出かけていた。
着工以来一か年、昭和八年十一月には第一期の工事が終わって、大陸開発を想わせる平原、広漠十四万坪の敷地にも、一むらの近代式工場が、操業開始の運びとなった。
十二月十三日、ついにその日が来た。中川原の地に鍬をおろしてから十年、ヨーロッパで野口氏が人絹の企業を決意して十五年、この日あるを期して営々と建設してきた、国産人絹工場試運転の日が――。
準備なって、パルプ室には真白なパルプが開梱されていた。ノルウェーから買ったVSパルプ、アメリカから来たレオニアパルプ、いずれも飛び切り上等品である。最初のパルプが処理されて、それがぼたん雪のように降ってくると、第一工程が終わり、試運転成功と、部長以下、感激のさかずきをあげた。このぼたん雪のようなパルプが一筋の糸になって、レーヨン工場初の製品にでき上がったのは、八日目の十二月二十一日のことである。
大車輪の建設工事で、やっと機械を運転にこぎつけたものの、付属設備はまだまだ整わなかった。一番困ったのは、便所が遅れたことである。紡糸機の下には、人が一人やっと通れるくらいの狭い地下がある。男工は、無造作に、この真っ暗な穴に飛び込んで用を足した。紡糸係は、広いとはいうものの室内のこと、塵も積もって山となり、換気の悪いことは警察のブタ箱くらいの妖しい臭気がただよい始めたという。女工となると、そうはできない。もじもじしながら働いていた者が、急に、
「アレッ」
と一声叫ぶと、身を木の葉のようにひるがえして、一目散に戸口のほうへ走る。
「何処へ行ったものやら?」
追跡するわけにもゆかない。
機械や人が慣れるにしたがって、糸はめきめき良くなってきた。コストも一函(百ポンド入り)四十円くらいでできて、百十円くらいに売れた。これだけを見ると大変なもうけのようであるが、工場はこれからである。引き続いて、二期、三期の工場を建ててゆかねばならない。はたで見るほどの大平楽ではなかったのだ。
全国的な好景気で、労務者も不足してきた。人絹工場といえば有害工場とひどく嫌ったくらいの時代だから、当時はまだ、工場はやはり恐れられていた。特に初心者は不安だったらしい。工場はいらぬ心配をさせまいと気遣ってか、説明をしぶったので、逆効果をもたらしたこともある。新入工員には、決して硫酸や二硫化炭素など薬品のことは教えなかった(不安や混乱を起こさないために)。紡糸室には、その頃よくガスが出たので、慣れない者は、まず眼を痛めた。
ある者も入社一か月、紡糸室に一日いると、眼がむしょうに痛い。思わず手近かな水で目を洗った。「アッー」――その水が、なんと紡浴酸だ。薄いとはいえ硫酸が含まれている。飛び上がるように痛い。それから三日くらい腫れが引かなかったという。紡浴酸を知らずに起こした珍談である。
最近では、機械はすべてガラス戸の中におさめられ、巨大な換気装置があって通風がよく(レーヨン工場の丈の低いたくさんの煙突は、すべて通風塔である)、毎日ガス濃度の検査も行っているから、眼を痛めることは少ない。そのうえに洗眼設備も設けられているが、ガス洩れがないので、洗眼器も人待ち顔である。今日では、一か月からの教育期間もあって、こんな悲喜劇は、見ようとしても見られない。
生産拡張
一期工事(第一工場の建設)が終わると、ただちに第二期工事、二期が完成すると三期と、次々に拡張工事が続けられていった。工場でいくら作っても、販売は足りないといってくる。安い日本の人絹が、先進諸国の人絹を駆逐して世界を駆けめぐっていった。人絹ブームの到来である。こんな景気は百年に一回しか来ないチャンスである。われもわれもと工場を新設・増設して、またたく間に全国に四十を超す工場が乱立した。
こんな情勢下にあって、業界の元老・旭がぼんやり見とれているわけはない。増産のためには、電気や蒸気の設備が整っていなくても、一応の機械さえ据え付けられればと、早くも生産は始められた。電灯がつかないので薪をたいて、その明かりで作業する。煙たくて仕様がない。蒸気パイプが通っていないので、鉄板を真っ赤に焼いて水をぶっかける。しゅんしゅんと大きな泡を立て、真白な湯気が立ちこめる。
こんなことで、電灯と蒸気を間に合わせた。これでいい糸のできるはずがない。それでも作らねばならない。質よりも量、作っても作っても、羽が生えたように売れていった。2工場と3工場が完成して、一万に近い従業員をかかえた。一か月二万四千函(百ポンド入り)もできるようになった。レーヨンの黄金時代である。
「従業員各位ノ多年ノ労苦ニ感謝シ、レーヨン部ノ隆昌ヲ祝シテ」――従業員全員に対し、大枚一円也の特別賞与が贈られた。一か月三円以上の金を自由に持つことを許されなかった日給四十五銭の女工員にとっては、思いがけないよろこびであった。
旭ばかりでなく、全国的な生産力増強によって、昭和十二年にはアメリカを抜き、全世界生産の約二十八パーセント、三億三千万ポンドを出し、野口氏の夢みた世界一の人絹王国が、ここに実現することになった。