レーヨン工場を眺めて見よう!

2026年6月17日

まず鳥瞰図を二枚。一枚目は柚木・宇和田上空から、工場を見下ろした図です。手前小山橋の近くから工場敷地は始まります。女子寮、硫酸工場の向こうにレーヨン工場が4棟(3F,2F,1F+4F)威風堂々と並んでいます。工場の東側には小さいですが4本煙突が見えます。その北側には貯水池。女子寮と3F工場の間にプール(完成したのは昭和32年)が見えます。また富美山は田んぼで覆われており、住宅開発は未着工の時代です。桜園にはアパートが立ち始めていますから時代は昭和34年以降と思われます。職員住宅とアパートの向こう、中の瀬あたりは広大な水田が広がっています。

二枚目は中の瀬上空から工場を見下ろしています。 一枚目の写真の真反対からの見下ろしです。

旧国道10号線に沿って注意深く見るとレーヨン工場正門前のロータリーが見えます。正門を入って西方に行くと、左手が事務棟、右手には小工場(作業所等々)と第4工場があります。時代はおそらく昭和38年ころですので、新装なったばかりのナイロン工場が見えます。道を進んでいくとやがて西門がありますが、その手前で「引込線」と直角に交差します。ここを右手(北に)曲がると製品倉庫群の間を通って3F工場を抜けると、硫酸工場と給水塔に差し掛かります。工場敷地はこの先、西方(小山橋方向)に大きく拡大し、ここには規模の大きな「女子寮」がありました。(一枚目の写真を参照)

レーヨン正門に戻りましょう。正門を入って右に曲がると工場群1F,2F.3Fが続きます。やがて2Fの東側に火力発電所を中心とした動力部があり、ここに4本煙突があります。煙突の東側敷地には貯水池が広がります。延岡の古い地図を眺めると引込み線は工場群を大きく北に迂回し、この煙突の近くまで伸びている様に描かれているのですが、これを実証する写真を現在まで一枚も見たことがありません。ところが、国土地理院の航空写真をAIで高解像度化したところ、引込み線経路が浮かび上がってまいりました。とても面白い。この写真は後半載せます。

昭和30年代のレーヨン工場正門前です。バスは右のソテツを周回して街中に戻っていきます。

こちらも正門近くのソテツですが、よく見ると右背景に4本煙突が写っています。

4本煙突を祝子橋方面から撮った写真を加工しました。レーヨン部はおそらくレーヨン工場が正しいと思いますが、時代によってロゴが変わっていったのかもしれません。手前は貯水池です。

工場建設時の工場詳細地図ですが、もっとも詳しいのは東海のダイナマイト工場。旭化成火薬部30年史1964年)に挟まれている数葉の詳細な地図は眺めていて飽きません雷管工場にも同様の地図があります。薬品工場には素朴な地図が3枚残されていますが、必要かつ十分なスッキリした地図です(薬品部30年史:1954年)。

一方ベンベルグ工場やレーヨン工場にはこのような体系的な地図が見当たりません(妄想老人が知らないだけかもしれませんが、見当たらない・・・と思います)。

下に引用する地図はもともと「レーヨン部史(1951年)」に掲載されていたものが、2002年発行の旭化成80年史に再掲載されたものですが、妄想老人が知っている唯一のレーヨン工場内地図なんです。第一期工事ですから昭和8年の地図です。「自転車置き場」や「女工寄宿舎洗濯場」「渡り廊下」「医務室」なんていうのが妙にリアルです。ちなみに寄宿舎前の「北門」から構内に入り「渡り廊下」を渡って妄想少年たちは「プール」に通っていました。

23が供給所ですが、当初は本通り社宅の一番東側にあったとの記録があります。昭和30年ころ区画整理で場所が移動します。一方気なるのは、医務室と供給所の間に境がないことです。昭和の妄想老人の時期にはドンドン川由来の用水路がしっかり流れており、更に高い壁が張り巡らされていました。境のない時代があったとしたら、いい時代ですね。


次の写真には「1F工場南側」というキャプションがついています。地図や各種写真からこれが撮られた場所を探すのですが、なかなか難しい。レーヨン工場の各棟の間は狭く、これほど余裕のあるゆったりとした場所はなかなかない。正門から入ってすぐ、事務棟の近くではないかと予想します。


昭和22年の航空写真の解像度を上げて、レーヨン工場構内地図を解説してみます。


女子寮と硫酸工場を中心に。ここには引込み線の延長が走っていますが、この写真では読み取るのが難しい。女子寮の屋上ですが、奇妙な文様が描かれています。これは戦争中の空襲対策用の偽装工作がまだ残っているものと思われます。敗戦直前には工場や社宅もこのような文様が屋根に描かれていました。まだプール(完成は昭和32年)は見あたりません。

「硫酸工場」と「給水塔」の写真も付記しておきます。


次は、昭和30年代の女子工員寄宿舎です。これを「麗水寮」と呼ぶとは知らなかった。更に北門から麗水寮の前を通ってプールを通り工場へ向かう「渡り廊下」の写真があるので、掲載しておきます。

さて、この寮のあった場所は、その後は工業専門学校のような施設になったと思いますが、詳細は後日調べ直します。


3Fという言葉が出てきましたが、レーヨン工場職員の間では戦後(だと思いますが)工場のことをF(おそらくFactory)と略す表記が散見されます。

下の写真は1935年(昭和10年)のレーヨン工場ですが、第二工場は完成し、その横(祝子川側)で第三工場の基礎工事が始まっている時期の写真です。疑似カラーですので、よくみると祝子川の川面がうっすら青く見えます。また3F敷地の北側には背の高い「硫酸工場」が見えていますが、この工場の形は恒富のアンモニア工場のものと同型です。

工場手前の三角おにぎりが連続しているようにみえる建屋は製品倉庫です。この倉庫と工場の間を引込線が走っています。また製品倉庫の手前は工場外壁であり、その外には山月の道路が走っているわけです。

工場で働いたことがある方で、この時代のレーヨン工場の概形を後世のために残してくれる方がいれば本当にありがたいのですが・・・・。

レーヨン工場で長く勤務された方々の記憶力が心配な季節となっています。

100年近くあの場所を占拠しておきながら、中がどうなっていたか全くわからない。記録が残っていない。これは良くない。

昭和7年の延岡地図をその昔紹介しました。あの地図で中川原が「空白」だったことにショックを覚えた妄想老人ですが、実は昭和ー平成ー令和を通じて、「空白」は100年近く続いているのです。せめて昭和時代のことは記録に残しておきたいと思います。

別の切り口で、紹介を続けます。

次は昭和37年の工場上空写真です。注目ポイント

  1. ナイロン工場がまだないこと。昭和38年にはナイロン工場ができ、旭化成が石油・ナフサ系の石油化学工業に本格的に乗り出すことになるわけです。というわけでこの写真と次の写真の間が時代の分水嶺となります。
  2. 東旭の桜園アパートは5棟見ることができます。
  3. 旭小学校の大運動場の南北に横長の木造校舎(一年と二年)が見えること
  4. 富美山の造成がついに始まっていること
  5. 中の瀬のグランド(陸上グラウンド)と野球場が完成したのは昭和30年。
  6. グランドの南に男子寮が見えること。この男子寮は「雄耿舎(ゆうこうしゃ)」といいます。なかなか読める漢字ではありません。

「強くて節を守る」これが「雄耿(ゆうこう)」の意味だそうです。

次は39年の航空写真です。注目点は

  1. ナイロン工場が旧レーヨン第四工場に覆いかぶさるように、その姿を表していること
  2. 引込み線がきれいに円弧を描くように、3F工場の端をかすめて4本煙突と貯水池の間に伸びていることが確認されること
  3. 富美山に家が建ち始めていること

昭和38年 ナイロン工場完成直後の写真です。これは旭社宅からは目だって見えた。背が高く、明るい色調だったから。

実は旭社宅に住んでいて、レーヨン工場が日常的に意識できない理由が今回本当によくわかりました。工場は広大ですが、背が低いのです。せいぜい二階建てなので、工場外壁に遮られて、部外者には何も見えないというのが真相だったんですね。そういうことだったんだ。なんか腑に落ちました。