延岡大空襲の被災地域について
2026年8月6日
本日は長崎原爆被災の祈念日です。8日が広島原爆被災、そして15日が終戦(敗戦)記念日ということになります。
妄想老人は過去の延岡を掘り起こして参りましたが、太平洋戦争の4年間のことはこれまであまり話題にしていません。
これまで延岡大空襲について、戦前の延岡のお医者さんのページ紹介で述べたことがある程度です。
さて延岡大空襲についてはかなりの記録が残されています。代表的なのは
「太平洋戦争延岡空襲戦災記」市山幸作 著 延岡空襲戦災記刊行会, 1983.1
これは国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。300頁近い書物ですが、写真も豊富で記述も経時経年・被災地別に整理されており、多くの悲惨な体験談が残されています。心に染み入ります。市山幸作さんという方は、大正の初めにアンモニア工場が出来たときからの日窒社員として、延岡・日窒(旭化成)の大方の出来事を経験された方であり、この戦災への強い思いから戦災記を刊行され、また今山にある「延岡空襲殉難碑」の建立に関わって来られた方です。
このような記録は他にもあり、このホームページで再掲するべきものではありませんので、紹介に留めておきます。
「延岡市史」延岡市史編さん委員会 編出版者 延岡市 出版年月日 1963
「我が故郷に戦火燃ゆ : 延岡大空襲の記録」 渡木真之 絵と文 鉱脈社 1994
「宮崎県立延岡高等学校百年史」延岡高等学校同窓会百年史委員会 編 宮崎県立延岡高等学校同窓会 2000
ところで大空襲によって被災した延岡の詳細はどうだったのでしょうか?実は記録は様々です。下記は1963年の延岡市史に掲載されている地図です。主に岡富祇園町、川中地区、恒富安賀多地区の3カ所が被災地区となっていますが、空襲で燃えた地区がこんな整然と区分けされるわけがありません。また非常に奇妙なのはベンベルグ工場周辺が被災していないことになっている。恒富の社宅も罹災区域に入っていない。工場と社宅は空襲の被害にあっていたと記録にあるのですが・・・
延岡大空襲という昭和における延岡でも最大級の戦災について、実は記録が正確ではなさそうなのです。

次はこのHPの読者の方から送っていただいた内藤記念博物館掲示物のスナップショットですが、この被災地図は1963年の延岡市史の地図より詳しい罹災地図となっています。中の瀬二硫化工場、三軒屋・萩町と商業学校(後の旭小学校)、山下町、昭和町、延岡高等女学校、出北地区、それと延岡中学の被災がはっきり記されています。ところで、この地図が6月29日の被災地図なのか、戦争中の一連の空襲の総まとめなのかは不明です。
延岡駅、旭小の校舎(商業学校)は戦災で燃えたのか?この地図記録だと駅は空襲から外れており、商業学校は戦災にあっている。本当なのか?まだまだ疑問が残ります。
というわけでこの地図の元データを探しています。と同時に延岡空襲の実相について深堀りを始めています。
