レーヨン工場の誕生(4)

2026年6月14日

生産拡張

一期工事(第一工場の建設)が終わると、ただちに第二期工事、二期が完成すると三期と、次々に拡張工事が続けられていった。工場でいくら作っても、販売は足りないといってくる。安い日本の人絹が、先進諸国の人絹を駆逐して世界を駆けめぐっていった。人絹ブームの到来である。こんな景気は百年に一回しか来ないチャンスである。われもわれもと工場を新設・増設して、またたく間に全国に四十を超す工場が乱立した。

こんな情勢下にあって、業界の元老・旭がぼんやり見とれているわけはない。増産のためには、電気や蒸気の設備が整っていなくても、一応の機械さえ据え付けられればと、早くも生産は始められた。電灯がつかないので薪をたいて、その明かりで作業する。煙たくて仕様がない。蒸気パイプが通っていないので、鉄板を真っ赤に焼いて水をぶっかける。しゅんしゅんと大きな泡を立て、真白な湯気が立ちこめる。

こんなことで、電灯と蒸気を間に合わせた。これでいい糸のできるはずがない。それでも作らねばならない。質よりも量、作っても作っても、羽が生えたように売れていった。2工場と3工場が完成して、一万に近い従業員をかかえた。一か月二万四千函(百ポンド入り)もできるようになった。レーヨンの黄金時代である。

「従業員各位ノ多年ノ労苦ニ感謝シ、レーヨン部ノ隆昌ヲ祝シテ」――従業員全員に対し、大枚一円也の特別賞与が贈られた。一か月三円以上の金を自由に持つことを許されなかった日給四十五銭の女工員にとっては、思いがけないよろこびであった。

旭ばかりでなく、全国的な生産力増強によって、昭和十二年にはアメリカを抜き、全世界生産の約二十八パーセント、三億三千万ポンドを出し、野口氏の夢みた世界一の人絹王国が、ここに実現することになった。