レーヨン工場の誕生(2)
2026年6月14日
土地買収
緊急村民大会で選出された五名の買収委員が、地主との交渉に専任することになった。工場建設の予定地として、祝子川以南四十町歩があてられ、この土地とそこに住む三十二戸の立ち退き説得が、委員の毎日の仕事になった。
中川原は父祖伝来の土地であり、地味肥沃で、灌水の便もよいので、土着の農民にとっては、立ち退きは断腸の想いであった。しかし、委員の説得には、大半は応じた。買収条件は次のとおりである。
一、立ち退きの者は、工場建設後、優先的に工場に採用する。
二、買収価格
- 区分 | 対象 | 単価・補償 |
- --- | --- | --- |
- 宅地 | 居住 | 坪当り十五円 |
- 宅地 | 不在地主 | 坪当り七円 |
- 耕地 | ― | 坪当り二円 |
- 立退料 | 小作 | 一戸当り千円 |
立退料は、二か年の小作料に相当する金額とした(当時、一反歩の小作料は二俵ないし三俵とされ、一俵の米価は十円程度であったので、一反歩につき二〜三十円の補償金が支払われたわけだ)。
中の部落〔なかのぶらく〕に、今は故人となったS君というのがいて、付近の住民を煽動し、どうしても立ち退きに応じない。表から委員たちが訪ねると裏から逃げ、裏から襲うと、早くも察してまた逃げる。委員もとうとう腹をすえて、その不当を全村に公開するばかりの手筈をきめ、最後の示談に向かった。
S君は、庭先の野天風呂で鼻歌まじり、すこぶる上機嫌に湯浴みしていたところを急襲されて、逃げられず、委員たちと会談することになった。S君は「坪五十円なら立ちのきましょう」といった。
延岡のメインストリート一等地が坪十円だった時代に、祝子川畔のへんぴな土地を坪五十円とは、とんでもない吹っかけようだ。M氏はS君をはたと見すえて、
「なんだと、五十円! それはまた、どこから割り出した?」
S君はけろりとして、
「あんたは職業別ちうことを知つとるけ、おれは百姓ぢやが、ここん土地をつつて町んでても、百姓はでけんわ、祇園町の木谷呉服屋は、えろう繁盛しとるが、あの土地、五十円するちゆう、木谷でん、中川原にきちや、反物は一反も売れん、五十円の土地に、店持ちよるかり商売になる、おれでん商売するにや木谷ほどの土地がいる、生活を補償するちゆうなら、生活出来るだけんこつ、やつちくんね」
なるほど、M氏もこれには参った。しかし、こんなことをS君自身が考え出すはずがない。最近よく弁護士のもとに通っているといううわさを聞いたが、きっと入れ知恵に違いないと察して、
「お前の理屈は通らん、もう十人のうち九人まで、気持よくきょ入れたのにお前だけそんげなこと言つては為にならんぞ、こちらでは、もうちゃんと公開状を村ぢゅうに、配るだけにしちゃる、皆にお前のやりかたを聞いてみる積りだ、いまんうち、うんと返事したらどうけ」
と詰め寄ったところ、根が気の小さい男で、公開状にはころりと参って、しぶしぶ承諾した。このことを新聞社が聞きつけて、その日の夕方には早くも号外となって出た。「レーヨン工場土地買収円満解決す」と。
大正十五年五月に始まり、翌年春までに、中川原上の組十五戸、中の組十二戸、下の組五戸の買収が完了して、各戸はそれぞれ現レーヨン正門前付近に移住し終わった。
地鎮祭は大正十五年五月三日、現在の第一工場付近で、村長、村会議員、延岡町長、恒富村長らが列席のもと、川澄村長の鍬入れによっておごそかに執り行われ、大工事の第一歩を踏み出した。その夜は全村あげてのお祭り騒ぎで、今山で演芸大会などが催され、大延岡への発展と近代化学工業の生誕前夜のよろこびを祝った。
地鎮祭がすむと、滑り出しよく仕事が始まった。住民は移転を、工場は整地を進め、発破〔はっぱ〕で山を切りくずしては、田畑を埋めていった。大林組の采配、五、六十台のトロッコ、千人からの人夫。静かだった祝子川畔は、にわかに騒然としてきた。
この騒音を突如破ったのが、工事中止の指令である。そのいきさつは
大正末期から昭和四年頃まで、世界は恐慌に続く不景気で、経済界は不況のどん底に沈んだ。喜多社長の本家・日綿も、御多分にもれず赤字に苦しんでいた。ただ人絹だけが、売値よりコストのほうが大きく切り下げられたため、黒字を出していたにすぎない。そこで、人絹のもうけを日綿に注ぎ込んでいるといううわさが立った。日綿系の人たちは、そんなのは「経済界の常識だ」と言い、日窒系は「旭の利潤は旭の発展にとっておけ」と主張した。
この対立が昂じて、野口氏の旭絹織株買い占めということになり、喜多社長退陣にまで発展した。野口氏が財界の「説教強盗」と呼ばれたのは、この頃のことである。
こんな具合だから、工場を野口氏の勢力圏である延岡(すでに薬品部があった)に建てることには大反対で、一度やると決めた中川原の工場建設が、急に止められてしまったのである。
喜多氏が退陣すると、日綿系社員の大部分もまた、社長に殉じて旭を去っていった。そのために、経営機構が一時マヒしてしまったという。旭が内輪もめでごたごたしている、ちょうどその間に、現在大いに活躍している東洋レーヨン、倉敷レーヨンをはじめ、大小いくつかの人絹会社が、雨後の筍のように建てられてきた。
工場建設の中止で、中川原一帯のさびれようはお話にならない。住民たちは職にもつけず、田畑は手放し、生活に困り果てた。重大な社会問題となってきた。
以前、細島で日本セメントが工場敷地を買収して埋め立てたまま、建設を止めたことがあった。そのため土地を離れた住民が塗炭の苦しみをなめた前例もある。それであればこそ、はじめに念を押していた村民である。
「レーヨン工場の建設は、誠に喜ばしいが中途で、工事を止めてしまう様な事はあるまいな」と。
これに対して会社は、
「絶対、そんなことはない、首をかけても」
と言明していた。それがこの始末だ。
「白髪頭の毛を一本、一本ぬいてやる」
「首をよこせ」
と、村民大会には、鉈〔なた〕や鎌〔かま〕を腰に差して出向くほどの、不穏な空気が漂い出した。
村当局は、みずからまいた種を刈りとらねばならぬ時がきた。
「まあ、待て、みんなも家を建てるとき、星まわりが悪いとか言つて、一年や二年は延ばすことがあろう、会社にしても都合によつては、二年や三年はのばすこともある、きくところによれば、会社はすでに八十万円という大金を、あの土地には注ぎ込んでいるそうだ、今更とり止めることが出来るものか、会社の首をとる前に、おれの首を持って行け」と、たんかを切った職員もあったという。
こうして、村民大会で気勢を挙げる一方、連日役場に押しかけて、村長にひざ詰め談判を続けた。さしも豪放な村長も、住民の困窮には苦悩の色ふかく、ついに天寿を全うしえなかった。
とにもかくにも、救済対策委員ができて会社と折衝することになり、仮建設事務所で団体交渉が開かれた。会社側も村民の窮状を充分諒承して四千五百円の救済金を支払い、この金を一戸平均二百八十円ずつ配分して、問題を一応解決した。と同時に、村議連も議員の日当を出して、難民の救済にあてたという。