延岡空襲の被災地域調査
延岡のどこが空襲を受けたのか、調べていくと必ずしもきちんと記録が残っているわけではなさそうです。まず昭和20年6月29日の大空襲で市役所や警察署を含む行政の中心が被災してしまいました。その後も空襲は続きましたので、いつどこが被災したのか、正確な記録が残っているわけではないようです。延岡市史には7ページの記録があり、大空襲で被災した施設として記載があるのは以下の通りです。
- 官公庁・公的機関: 市庁舎、郵便局、延岡警察署、煙草専売局
- 学校: 県立延岡中学校、県立延岡商業学校、県立延岡高等女学校、延岡小学校、私立実践女学校、私立静修女学校
- 文化・武道施設: 内藤記念館、武徳殿
- 金融機関: 日向興業銀行、大分合同銀行支店、野村銀行支店、勧業銀行支店、鹿児島興業銀行支店、日向無尽、宮崎無尽、信用金庫
- 劇場・映画館: 延岡劇場、有楽映劇、春日映劇
- 寺社: 光勝寺、照源寺、願成寺、亀井神社
- 旅館・商店・工場: 菊池旅館、吉野屋旅館、長崎屋旅館、旭化成ベンベルグ工場(一部)、古帝園(書店)、文展堂(書店)
- 橋梁(一部焼失): 五カ瀬橋、須崎橋、大瀬橋
市山幸夫氏の「太平洋戦争延岡空襲戦災記」市山幸作 著 延岡空襲戦災記刊行会, 1983.1
これまでに妄想老人が調べた範囲での報告を述べておきましょう。長い長い報告になります。
延岡空襲と学校・工場・鉄道施設の被災
―地元記録・工場記録・米軍資料からみた再検討―
昭和20年の延岡空襲について調べていくと、従来の延岡側の記録だけでは、必ずしもその全体像を正確に把握できないことが分かってきた。
延岡市史や学校史、市民による空襲体験記は、地上で何が起こったのかを知るための最も重要な資料である。一方で、戦争末期の混乱の中で作られた記録には、空襲の日付、攻撃機の種類、攻撃地点などについて誤認や混同が含まれている可能性もある。
一方、攻撃側の米軍側には相当数の資料が残されており、その中には作戦記録、爆撃報告、戦後の被害調査、さらに空襲前後に撮影された航空写真などが含まれる。
また、旭化成の前身にあたる日本窒素由来の工場については、戦後、米軍が工場関係者から詳細な聞き取り調査を行っており、工場内部の被害について地元の一般的な空襲記録には見られない情報が残されている。
以上をふまえて現在、
① 延岡市民・学校側の記録
② 日本窒素・旭化成側の工場記録
③ 米軍側の作戦記録・航空写真
の三者を突き合わせながら、昭和20年の延岡空襲を改めて組み直す作業を進めている。
以下、現時点で分かっていることと、なお確認を要することを施設ごとに整理してみたい。
1.現在の旭小学校の場所にあった学校
現在の旭小学校の場所には、戦前、延岡商業学校が存在していた。
複数の地元資料と、米軍側の空襲後の被害判定資料からみて、この学校施設が昭和20年6月29日の延岡大空襲によって被災したことは、かなり確実と考えてよい。
米軍側の被害判定資料にも「Nobeoka Commercial School」に相当する学校施設の被害が記録されており、三軒家地区の焼失区域と連続して大きな被害を受けたものと考えられる。
ただし、「校舎のすべてが全焼した」とまで断定するには、なお航空写真による建物単位の確認を行った方がよい。
また、もう一つ問題となるのが、昭和20年6月時点での学校の正式名称である。
戦時中、商業教育から工業教育への転換が進められ、延岡商業学校もその影響を受けていた。学年によって商業課程と工業課程が併存する過渡的な時期があったと考えられる。
したがって、昭和20年6月29日当時の学校を単純に「延岡商業学校」と呼ぶべきなのか、「延岡工業学校」と呼ぶべきなのかについては、学校史や当時の公文書による確認が必要である。
現段階では、
「旧延岡商業学校の校地に置かれていた、戦時中の商業・工業教育移行期の学校」
程度に理解しておくのが安全である。
2.昭和20年から昭和23年までの空白
昭和23年5月、この場所に中川原旭小学校が開校する。
したがって、昭和20年6月29日の空襲から旭小学校開校まで、およそ3年間が存在する。
ところが、この3年間について、
空襲で損傷・焼失した校舎がどのように処理されたのか
いつ再建が始まったのか
新しい建物は旧校舎の配置を踏襲したのか
商業学校あるいは工業学校がどの段階までこの場所を使用したのか
旭小学校への引き渡しがいつ、どのように行われたのか
といった事情を詳しく説明する資料が、少なくとも現在まで私が調べた範囲ではほとんど見つかっていない。
延岡市の公式記録、市史、学校関係の記念誌にも、この時期について詳しい記述は見当たらない。
戦時中から戦後直後にかけてのこの数年間は、旭小学校の歴史を考える上で大きな空白となっている。
今後、延岡商業学校、戦時中の工業学校、さらにそれらを継承した学校の校史や記念誌、同窓会資料(五十周年記念誌の他に三十五周年記念誌)などを調べる必要がある。
3.旭小学校に残された写真資料
旭小学校の創立五十周年記念誌(平成11年6月発行:1999年)には、学校の変遷を知るうえで非常に重要な写真が多数残されている。
戦前の旧商業学校時代と思われる校舎や正門の写真、昭和23年の開校当時、昭和20年代後半、昭和30年代初頭、さらに昭和32年の火災前後など、複数の時代の学校写真を比較することができる。
また、昭和31年頃には学校全体を写した航空写真も残されており、校舎配置をかなり広い範囲で確認することが可能である。
ここで一つ興味深い問題が生じる。
昭和23年の旭小学校開校当時の校舎写真と、戦前の商業学校時代の校舎写真が、一見するとよく似て見える場合がある。
しかし、昭和20年6月29日の空襲によって旧校舎が大きく被災していたのであれば、両者を無条件に同一建物と考えることはできない。
戦後に旧校舎と似た設計で再建された可能性、旧建物の一部が残存して利用された可能性、あるいは写真の年代表示そのものを再検討すべき可能性など、いくつかの仮説が考えられる。
この問題は、建物の屋根形状、窓の数、玄関位置、校舎間の距離などを一つずつ比較することで、かなり絞り込める可能性がある。
4.卒業写真から校舎の変遷を追う
旭小学校には初期の卒業写真も残されている。
第一回卒業生(昭和23年頃)以降の集合写真を見ると、児童の集合写真の背後には校舎、渡り廊下、樹木、門などが写っている。
これらの写真を年代順に並べれば、昭和23年の開校直後から昭和30年代にかけて、どの建物がいつ存在し、いつ増築あるいは撤去されたのかを追跡できる可能性がある。
学校史の文章記録が乏しい時期であるだけに、写真そのものが重要な歴史資料となる。
5.旭小学校正門の移動
旭小学校では昭和29年頃、それまで東側にあった門に代わって、南側に正門が設けられたという記録がある。
旧東門は三軒家方面、旧国道10号に面する側にあったと考えられる。
しかし、昭和29年に設置された南側正門が、現在の旭小学校正門と全く同じ位置にあるのかどうかについては、まだ確認できていない。
古い写真を見る限り、現在の門よりやや三軒家側に位置していた可能性も考えられる。
この問題については、昭和20年代・30年代の航空写真と現在の地図を重ね合わせれば、かなり正確に確認できるだろう。
6.空襲前後の航空写真
今後、この問題を考えるうえで最も重要な資料になると期待しているのが、昭和20年の空襲前後に撮影された米軍航空写真である。
空襲前の5月末頃の写真と、6月29日の大空襲直後、7月初旬に撮影された写真を比較することができれば、旧商業学校校地について、
どの建物が空襲前に存在したか
どの建物が空襲後に消失しているか
三軒家地区の焼失範囲と学校敷地の関係
校舎の一部が残存していたか
などを直接確認できる可能性がある。
旭小学校前身地の問題については、この空襲前後写真の比較が一つの決定的資料になると考えている。
7.延岡駅
延岡駅については、現在まで確認した延岡市史や市山氏の記録などには、6月29日の大空襲によって駅舎が大きく被災したという明確な記述は見当たらない。
米軍の被害判定写真を見ても、延岡駅そのものが大きく焼失した形跡は確認できない。
一方、延岡駅よりやや北側、萩町方面の鉄道線周辺から山下町方向にかけては、部分的に空襲被害と思われる痕跡が認められる。
したがって現段階では、
延岡駅舎そのものは6月29日の大空襲による大きな被害を免れたが、その北側の鉄道沿線地域には被害が及んだ
と考えている。
8.延岡高等女学校と実践女学校
延岡高等女学校については、地元資料、空襲記録などから、昭和20年6月29日の大空襲によって被災したと考えてよい。
実践女学校についても、同日の空襲による被害が記録されている。
これらについては、現在のところ6月29日の大空襲被害として扱うことに大きな問題はないと考えている。
9.延岡中学校――6月26日か6月29日か
延岡中学校については、空襲の日付に重要な食い違いがある。
延岡側の一部記録では、延岡中学校が昭和20年6月26日の空襲によって被災したとされている。
実際、米軍側にも6月26日に延岡を攻撃した記録そのものは存在する。
しかし、現在確認できている米軍記録では、この日の攻撃は中の瀬方面の一部を対象としたものと読め、恒富地区にあった延岡中学校まで被害範囲が及んだことを直接示す資料は、まだ確認できていない。
一方、6月29日の大空襲では恒富を含む広い範囲に攻撃が及んでいる。
このため延岡中学校については、
地元記録では6月26日とされるが、6月29日の被災であった可能性もあり、現時点では被災日の確定を保留する
のが適当である。
ここは「地元記録の間違い」と断定する段階にはまだ至っていない。
空襲前後の航空写真を確認すれば、この問題もさらに絞り込める可能性がある。
10.6月29日の工場地区
延岡の空襲について長く語られてきた一つの特徴は、
市街地が大きく焼失した一方で、旭化成系の大工場が比較的よく残った
ということである。
ベンベルグ工場をはじめ、主要な工場建築が戦後まで残ったため、市民の間では、
「米軍は日本の敗戦後に工場を利用するため、旭化成の工場を意図的に残したのではないか」
という風説まで生まれたという。
しかし、現在確認している米軍資料や戦後の工場調査からみると、この説を支持する根拠はない。
6月29日の攻撃は、個々の工場建物を一点ずつ狙った精密爆撃ではなく、延岡市街地を対象とした大規模な焼夷攻撃であった。
そのため、投下された焼夷弾は市街地だけでなく工場地区にも落下している。
ただし、工場ごとの被害にはかなり大きな差があった。
ベンベルグ工場は被害を受けたものの、主要施設の焼失は比較的軽微であった。
一方、レーヨン工場本体については、少なくとも米軍側の戦後被害判定では大きな被害を受けなかったとされている。
したがって、
「旭化成の工場は攻撃されなかった」
とするのも、
「工場群全体が大規模に焼失した」
とするのも、どちらも正確ではない。
より実態に近い表現は、
「6月29日の焼夷弾は工場地区にも落下したが、工場ごとに被害程度は異なり、主要建物の多くは焼失を免れた」
ということであろう。
11.なぜ工場は比較的残ったのか
工場が焼け残った理由については、一つの原因だけで説明するのは避けるべきである。
いくつかの要素が重なった可能性がある。
第一に、主要建築物の多くが鉄筋コンクリートなど、木造住宅より燃えにくい構造であった。
第二に、工場敷地には道路、空地、設備用地などがあり、市街地の木造住宅密集地ほど火が連続して広がりにくかった。
第三に、工場には消火設備や従業員による防火体制が存在していた。
第四に、同じ工場地区でも実際の焼夷弾落下密度には差があった可能性がある。
こうした条件が複合して、市街地と工場地区の被害の違いにつながったと考えるのが妥当である。
12.焼夷弾が落ちた場所と焼失区域は一致しない
ここで注意しなければならないのは、航空写真上で焼けていない場所だからといって、
「そこには焼夷弾が落ちなかった」
とは限らないことである。
焼夷弾が空地、道路、砂地、河原などに落下した場合、大規模な火災には発展しない。
また、不発弾も存在する。
発火しても、周辺に可燃物がなければ延焼しない場合もあるし、早期の消火によって火災を抑えられた場合もある。
したがって、
「焼夷弾落下地点」
「発火地点」
「延焼地点」
「最終的な焼失地域」
は同じものではない。
延岡の空襲被害を航空写真だけで判断するときには、この区別が非常に重要である。
なお、焼夷弾の投下総数、不発率、戦後の回収数などについては、いくつかの数字が伝えられているが、現時点では一次資料による十分な裏付けを終えていないため、ここでは具体的な割合は示さないことにする。
13.5月の女子寮地区への攻撃
6月29日の大空襲以前にも、旭化成関係施設は航空攻撃を受けている。
特に5月には、ベンベルグ工場北側にあった女子寄宿舎地区などが被害を受けた記録が残されている。
女子寮、講堂、運動場、給水設備などに被害が生じ、女子工員にも死者が出た。
また給水設備の損傷によって、工場操業にも一時的な影響が生じたとされる。
この攻撃は6月29日の大空襲とは独立した、重要な工場・宿舎地区への空襲である。
14.7月16日――男子寮地区の被害
レーヨン工場の東側、現在の陸上競技場付近には、戦前から男子寮が存在した。
昭和20年7月16日、この男子寮地区では通常爆弾による被害が発生し、男子寮、講堂、社宅などが損傷した。
日窒側の被害記録では、死者・負傷者も発生している。
ただし、ここで重要なのは、
米軍が男子寮そのものを攻撃目標としていたと確認されたわけではない
という点である。
米軍側の同日の作戦記録では、延岡の鉄道橋が攻撃目標として記録されている。
したがって現時点では、
「7月16日の航空攻撃によって男子寮地区が被害を受けた」
ことと、
「米軍が男子寮を狙って攻撃した」
ことを分けて考える必要がある。
男子寮地区の被害が、鉄道橋攻撃時の爆弾の逸脱によるものなのか、それとも別の攻撃行動によるものなのかについては、さらに米軍作戦記録を詳しく調べる必要がある。
15.終戦直前の工場攻撃
8月に入ってからも、延岡の工場地区への航空攻撃が続いたとする地元記録がある。
ベンベルグ工場、薬品工場、病院周辺などが攻撃を受けたとする記載があり、硝酸関係施設や電解工場が狙われたという証言も残っている。
また、低高度で侵入した米軍機の機種や機数についても、地元記録には具体的な記述がある。
しかし、これらについては米軍側作戦記録との照合がまだ十分ではない。
したがって現段階では、
「日本側記録ではこのように伝えられている」
という形で扱い、航空機の機種、機数、正確な日付、攻撃目標については今後確認する必要がある。
16.鉄道橋への攻撃
終戦直前、延岡周辺の鉄道施設も繰り返し攻撃目標となった。
米軍側資料では7月にも延岡の鉄道橋を攻撃目標とした記録が確認できる。
さらに8月には、日豊本線の鉄道橋に対する攻撃が行われ、橋梁の一部が破壊されたとする地元記録がある。
この攻撃は昼間に行われたため、多くの延岡市民が米軍機の飛来と爆撃を目撃している。
地上から対空射撃も行われたという証言が残っている。
ただし、7月16日の鉄道橋攻撃と、8月の鉄道橋攻撃については、別個の作戦として整理する必要がある。
また、橋の名称や正確な被害位置についても、日本側資料と米軍資料を照合しながら確定していく必要がある。
17.延岡への空襲は全部で何回だったのか
延岡への空襲回数についても、実は確定していない。
市山氏の記録では14回とされているが、米軍側の作戦資料を調べていくと、それ以外にも延岡あるいは延岡周辺を攻撃した記録が存在する。
中の瀬、島野浦、日豊本線、工場地区などへの比較的小規模な攻撃も含めると、従来知られてきた回数を上回る可能性がある。
そもそも当時の市民にとっては、
延岡を目標として行われた攻撃
別の目標への攻撃で延岡市域に被害が出たもの
戦闘機による機銃掃射
鉄道・橋梁への小規模爆撃
などをすべて正確に区別して記録することは困難であった。
敗戦直前の混乱期でもある。
したがって、「延岡空襲は何回あったのか」という一見単純な問いそのものが、今後改めて検討すべき研究課題である。
18.三種類の資料を重ね合わせる
現在まで調べてきて最も強く感じるのは、一種類の資料だけから延岡空襲を語ることの危険性である。
市民・被災者側の記録
市民側の証言は、人がどこで亡くなったのか、どの建物が燃えたのか、住民が何を見たのかを知るために不可欠である。
これは攻撃側の軍事記録からは知ることのできない情報である。
一方で、突然の空襲の中で、航空機の機種、攻撃目標、正確な時刻などを地上から判断することには限界がある。
工場側の記録
日本窒素・旭化成関係の戦後調査資料には、工場ごとの建物被害、設備損傷、操業停止、人的被害などが詳細に残されている。
市史や一般的な空襲記録では「工場はほとんど被害なし」と一言で済まされている場所でも、内部ではかなり具体的な被害が生じていたことが分かる。
米軍側の記録
米軍資料からは、
いつ攻撃したのか
どの部隊が参加したのか
何を目標としたのか
どの種類の爆弾を投下したのか
攻撃後にどのように被害を評価したのか
を知ることができる。
さらに航空写真を利用すれば、攻撃前と攻撃後の地上の変化を直接比較することも可能である。
しかし米軍側の記録も、あくまで「攻撃した側から見た記録」であり、実際に地上で何が起こったのかを完全に示すものではない。
19.これからの課題
今後の大きな課題の一つが、空襲前後の航空写真を使った地上被害の検証である。
特に、
昭和20年5月末の空襲前写真
昭和20年7月初旬の空襲後写真
を同一地点・同一縮尺で比較すれば、文章記録だけでは解決できなかった問題をかなり直接的に検証できる。
旭小学校前身地については、
旧商業学校校舎がどこまで焼失したのか
戦前の建物で残ったものがあったのか
戦後の旭小学校校舎との関係
三軒家地区の焼失範囲
正門や道路の位置
などを確認できる可能性がある。
同じ方法は、延岡中学校、女学校、工場地区、鉄道周辺についても応用できる。
まとめ
昭和20年の延岡空襲については、まだ分かっていないことが多い。
従来の市史や空襲体験記は極めて重要であるが、それだけですべてを説明することはできない。
米軍側の記録を読めば、地元では知られていなかった攻撃が見えてくる。
工場側の記録を読めば、「焼け残った工場」の内部にも具体的な被害があったことが分かる。
航空写真を見れば、文章記録の日付や被害範囲そのものを検証できる場合がある。
逆に、米軍資料だけでは人的被害や市民の体験は分からない。
したがって、延岡空襲の実像を明らかにするためには、
地上で空襲を経験した人々の記録、
工場を運営していた側の記録、
攻撃を行った米軍側の記録、
この三つを相互に照合する必要がある。
その際には、「確実に分かったこと」と「かなり可能性が高いこと」と「まだ分からないこと」を区別して記録しておくことが重要である。
延岡中学校の被災日のように、これまで当然と思われてきた記録にも再検討を要するものがある。
旭小学校前身地のように、わずか数年間の出来事がほとんど記録に残っていない場所もある。
また、工場が焼け残ったという結果だけを見れば「攻撃されなかった」ように思えるが、実際には焼夷弾が落下していた可能性があり、建物構造や地表条件、消火活動によって結果が大きく異なっていたことも分かってきた。
このように三種類の資料を一つずつ重ね合わせていけば、昭和20年の延岡で実際に何が起きたのかを、これまでよりはるかに具体的に復元できるのではないかと考えている。