商業学校は燃えていた・・・

2026年9月1日

写真は1945年8月7日、大空襲から一ヶ月後の中川原上空です。米軍は空襲の効果判定調査のため、空襲後の都市を調査飛行します。単機で日中しかも低空度で「敵本土」への探索飛行ですから、大胆といえばこれほど大胆な飛行はありません。終戦8日前であり、もはや日本側の制空権は完全に消失していますので、米側にこんな無様な調査を許しているわけです。

このような空撮フィルムは米国には大規模に残っていて、延岡でいうと最初の写真は1944年12月25日(クリスマス)の空撮写真が登録されているのを皮切りに、1945年5月28日には1ヶ月後の大空襲の目標確認のための撮影、6月29日には空襲の写真、7月2日には最初の評価、8月7日には二回目の評価写真が撮影されています。特に8月7日の撮影は鉛直方向ではなく鳥瞰図(俯瞰図)となっており、より生々しい被害状況が残されています。私が手に入れたのは主に5月28日と7月2日の写真ですが、一部鳥瞰図も入手しています。

この中川原の写真で商業学校はほとんど焼け落ちているようです。敷地に残っているのは、日ノ影線の近くと三軒屋南側の二つのの小建物だけのようです、当時の正門(思っていたよりも広くて立派なエントランスです)の前の植え込みが寂しく残っています。あと三軒家の商店街の南側は国道を挟んで両側ともに、かなり広範に焼失しています。このほかに写真の外になりますが、衛門山社宅の北側の山月の住宅が小範囲ですが焼け落ちています。

実は中川原の被害はここだけで、そのほかレーヨン工場、社宅、職員住宅、雄耿寮、二硫化工場への被害は、ほぼほぼなかったようです。

追伸:(1)よくよく考えてみると、私の旭小学校の同窓友人たちは、この写真から10年もしないうちにこの世に生まれてくるわけです。三軒家のガードの近くに何人も友達がおりました。私自身も左上の衛門山社宅のどこかで生まれている。

(2)8月7日が実は広島と長崎の間の日であることに気が付かされました。広島の翌日です。なんとも言えなくなります。

(3)戦前関連写真は今後も掲載していきますが、今回の写真を始めとして加工は一切おこないません。それほど原図の質が良いのです。いくら拡大を上げても、描写がなかなか劣化しません。この写真群はさすがに加工したくないです

(4)この中川原の写真の原図の大きさ、どれくらいだと思いますか?広さでいうと南は祇園町ー北はレーヨン第二工場、西は岡富小学校をはるかに越えて西延岡駅の先、現在の延岡ジャンクションくらいまで写っているのではないでしょうか。日之影線が延岡駅から富美山トンネル(正確には中川原トンネル)、山田、赤迫トンネルを越えて、西延岡あたりまで実にきれいに見えます。これを拡大しても上の写真程度にはなるのです。これから紹介したい写真はいくらでもありますので乞うご期待。