萩町・延岡中学・済生会病院

2026年9月12日

延岡大空襲も5回目の紹介となります。

今回は個々の写真を最初に紹介します。まず延岡駅ー萩町です。多くの方々にとって戦前の延岡駅を鳥瞰図で見るのは初めてではないかと思います。一番ホームと二番ホームをつなぐ跨線橋がわかりますか?この跨線橋は駅の南端にあったんですね。駅舎もその前の駅前広場の位置から判断すると随分南に偏っていたことがわかります。妄想老人が記憶しているホームはもう少し南側に長かったように思いますが・・・これ妄想??

確かに空襲跡があります。これはぎりぎりホームの北端あたりから萩町ー山下町・馬坂の分かれ道あたりまで小規模ではありますがはっきりと燃えた跡があります。中心が「萩町」の交差点あたりです。

延岡駅には貨車が数多く係留されています。鉄道や駅舎にはほとんど被害がなかったかのように見受けられます。

左下が空襲を受けた馬坂の道は富美山に至り、日ノ影線と交差します。日之影線の3つのトンネルの入口がわかりますか?右下の●が富美山(中川原)トンネル。中央が山田トンネル、左上端に赤迫トンネルの●が見えます。ちなみに馬坂の道と日之影線の交差するあたりに10年後に旭中学校が開校することになります。

最後に遠景です。この地区の被害は一回目で紹介した商業学校(後の中川原旭小学校)、今回の萩町の空襲くらいで、よそと比較すると被害が少ないので、逆に戦前の姿がありありと残っているのです。

次に延岡中学の空襲被害です。延岡高校のHPで「公式」の空襲被災日が6月29日と記録されていることを確認しました。校舎が全焼したと書かれていますが、検証してみましょう。

これは昭和20年5月28日の戦災前の写真です。左側の校庭、真ん中に3棟の立派な校舎。その右にいくつかの中小の校舎群があります。どこからが校内なのか特に右上(西北方面)がよくわかりませんが、宮日新聞社の100年記念写真集の校舎写真(下図)をみると、少なくとも右下の校舎群についてはある程度実在が確認できます。

左奥の矩形の建物(講堂?)がランドマークになります。宮崎100年 : 写真集 宮崎日日新聞社出版 1982.11 から引用

中央の3棟あった校舎の右側(北側)の一棹、そこから右側がすべて焼失しているように見えます。これは空襲直後の7月2日の航空写真。

8月7日の鳥瞰図です。画角が異なる二枚の写真が手元にありますが、この延岡中学は遠いのですね(航空機から)。解像度が今ひとつなんです。残念。次にもう少し飛行機が進んだタイミングの写真もお目にかけます。

今ひとつはっきりしませんが、これは7月2日の鉛直方向の写真が一番わかりやすいかもしれません。北側の校舎は全焼に近い。しかし一部の校舎、左側に2棟が残っているように見える。もちろんほとんど内部は焼けていたのかもしれませんが・・

最後は済生会延岡病院です。昭和10年に恒富(恒富小学校女子部跡地)に出来た病院で、もちろん全国各地にある済生会病院の一つです。この病院は6月29日の大空襲ではぎりぎりのところで焼失を免れ、院長の船渡護先生の大変な尽力で大空襲で被害を受けた方々の治療にあたったそうです。川中地区、祇園町のほとんどの病院・医院が焼け落ちてしまったため、この時延岡に残った大きな病院は3箇所の工場病院と黒瀬病院、黒木病院それにこの済生会病院だけだったとのことでした。

見ての通り火の手はギリギリまで迫っていたのです。恒富小学校とこの一帯はからくも焼失を免れたはずでした。

この写真は8月7日に撮られたものです。ところが、この次の日である8月8日に米軍はアンモニア工場と火薬工場に加え、済生会病院の焼夷弾空襲を行い、これでこの病院は焼け落ちてしまったのです。この写真の次の日の出来事でした。この地にはその後宮崎県立延岡病院が開設されることになります。初代院長は船渡護先生が務められたとのことでした。