B-29から見た延岡大空襲_準備・作戦・戦果
2026年10月3日
空襲には大きく2つの目的があるようです。
(1)目の前の敵を叩くこと。前進し、制圧するための局所的な攻撃
(2)対戦国の国力・生産力を消耗させ、国民の戦意を失わせること
米国の日本空襲は1942年4月のDolittle空襲ですが、まだまだ散発的でした。1944年6月からはB-29による八幡空襲。ところで、このころの空襲では「爆弾」が使われていました。東京八王子にあった中島航空機の工場を初めとする軍需工場爆撃などが行われていましたが、このころは日中、多編隊で飛来したB-29 が高度一万メートルから爆弾を落とすという形態でした。まだまだ日本の制空権も残っており、低空に降りて精密な攻撃がしたくても、日本側の反撃もあり困難でした。正確性に欠くこの「爆弾による空襲」に対する米国政府の評価は低く、効果不十分であると批判が続いたそうです。米軍当局にはかなりの焦りがあったと記録にあります。
戦略が大変換したのは1945年3月11日の東京大空襲からです。この日から米軍は深夜、単機によるレーダー精密焼夷弾攻撃に戦略を切り変えたのです。100機以上の単機を連続で目的上空に飛び込ませ、数分の間に攻撃を済ませ帰投する。3000mの低空ですので、日本側からの被弾を十分覚悟しなくてはいけない高度でした。実際100機単位で爆撃すると、撃墜され戻ってこないB-29もあるわけで、飛行士にとっての日本本土空襲は決死の覚悟がいったと報告されています。被弾する可能性を最小限にするために目的地上空の滞在時間を極限に少なくした戦術でもあったわけです。
深夜の高度3000mですので、必ずしも目標が見えるわけではありません。編隊の最初の10機の任務はとりわけ重要でした。技術・技倆にとりわけ優れた飛行士によるチームは「パス・ファインダー:pathfinder」と呼ばれ、かれらは目標地点を正確に攻撃し火柱を立てることが使命でした。
延岡では爆撃目標中心(MPI) は安賀多橋南詰に設定されました。(ちなみに東京大空襲では台東区・深川区等に4ヶ所の攻撃目標中心(MPI)が設定されました。)パスファインダーの後続の飛行機はレーダーでMPIを指標としますが、それとは別に雲の合間合間に炎上している目標を視認することができました。
一機のB-29
B-29一機が搭載した爆弾はどれほどの数量であったか?
この動画は長浜上空に達したB29のその後の1分間をモデルに作ってみました。
- 高度3000mを西に向うB29は、ほぼ長浜上空で40個の集束焼夷弾を6秒間で投下します
- 1500m落下した親爆弾は高度1500mで一つあたり38個の子爆弾となり(すなわち1520個にわかれ)西方に向かって落下が続きます。
- 36秒後にB29はMPI(安賀多橋南詰)上空を通過します。
- 40秒後に最初の焼夷弾は安賀多橋よりも東方350m地点に落下し、ここから絨毯のように焼夷弾の絨毯が西方に伸びていき、最後の焼夷弾はMPI西方350mに落下します。

紹介する図表は、集束焼夷弾一個が投下され、高度1500mで38の子爆弾に分かれたのちの地上への着弾分布です。米軍による事前検証ですが、ほぼ73m x 110mの範囲に90%の爆弾が着弾すると実証されました。これがいわゆる「絨毯」一枚となります。
一機のB-29からは6秒間に40発の焼夷弾の親爆弾が投下されるので、B-29の進行方向に向かって、幅70mの絨毯が重なり合いながら40枚撒かれていくわけです。先頭から最後尾までその長さは700mになります。この範囲に落下する焼夷弾の総数は1520本です。昔から「絨毯爆撃」と言われてきた空襲の実体は以上のようなものなのです。
これが117回繰り返されたのが延岡大空襲です。ですので焼夷弾の総数は17万発余となります。
侵入するB29の最終投下目標はすべて同一で「安賀多橋南詰」でした。ただ、延岡への侵入角度が意外にバラけていて、250°〜279°と報告されていますので、着弾点(正確に言うと一機ごとの絨毯の方向と着弾点)はばらつきます。風もありこの日は西北西の風が20m(高度3000m)でした。また侵入高度も機体によってばらばら。GPSのない時代ですので、正確さには限界があります。
しかしこの「ばらつき」が爆撃目標から一定の範囲を空爆する結果につながるわけです。この「ばらつき」効果は事前に十分検証されていたわけでもあります。「安賀多橋南詰」を目標にしても、北側は川中地区を大きく越え、祇園町の大半が攻撃範囲になり、南側は南延岡駅近くまで範囲になるであろうとの冷静な計算は出来ていたわけです。
次の動画は一機のB-29が40枚の絨毯を敷き詰める模様を描写します。700mに及ぶこの帯に1500発の焼夷弾が着弾するわけです。この帯は117枚撒かれますが、最初の着弾点や帯の方向がバラけますので、結局祇園町も、恒富も、延岡中学も、延岡女学校も延岡市役所も含む広範囲が空襲被害にあうことになるわけです。
次は米軍による延岡大空襲の報告書の日本語訳です。
最後に被害地図をあわせて掲載します。
米陸軍航空軍 第21爆撃集団
戦術任務報告書 日本語訳
任務第234・235・236・237号
岡山・佐世保・門司・延岡都市地域への焼夷攻撃
1945年6月28日~29日
延岡損害評価(1945年7月8日)
原報告書44頁
1.概要
a.1945年6月29日の第21爆撃集団・任務第237号による延岡の被害は合計0.52平方マイルで、市の建築区域1.43平方マイルの約36%に相当する。
b.標的1310、1312、1314および1315は、市の建築区域総面積の34%を占める。この4標的を除いた建築区域は0.94平方マイルで、その55%が破壊された。
c.工業被害には、番号付き標的2か所と、写真上に注記された標的区域3か所が含まれる。
- 標的1314 旭ベンベルグ銅アンモニア工場。
- 標的1315 旭ベンベルグ・ビスコース工場。両工場の各所に軽微な被害が散在する。
- 注記2 中学校(参照A):80%破壊。
- 注記4 延岡駅および操車場:小建物2棟が破壊。
- 注記6 市民センター(参照A):15%破壊。
d.無傷であった標的および注記区域
- 標的1310 旭火薬工場。
- 標的1312 日本窒素火薬の雷管工場(Raiken Plant)。
- 標的2186 五ヶ瀬川鉄道橋。
- 注記1 発電所。
- 注記3 祝子川鉄道橋(Hori-gawa RR Bridge)。
- 注記5 工員宿舎(標的1314・1315)。
- 注記7 南延岡駅、操車場および機関庫。
2.市中心部から半径5マイル以内の標的
- 標的90.38-1311 日本窒素火薬会社・延岡工場:目視可能な被害なし。
- 標的90.38-1312 日本窒素火薬会社・雷管工場:目視可能な被害なし。
- 未識別工場3か所:目視可能な被害なし。
参考:A.Nobeoka, AMS 340577、縮尺1/10,000、1944年10月。B.AAF Air Objective Folder 90.38。損害を注記したモザイク写真は次頁に掲載。第21爆撃集団CIU損害評価報告第121号および特別補遺に基づく。

